隋の大国ぶりを知った聖徳太子は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)の高僧であった恵慈(えじ)などから学んだ正確な国際情勢をもとに、隋との正式な国交を開く準備を始めました。
まずは隋に共同で対抗するために、高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。かつて任那(みまな)を滅ぼした新羅(しらぎ)とは険悪な関係が続いていましたが、聖徳太子はあえて同盟関係からはずしました(実はこれにも理由があるのですが…)。
事前の様々な準備を終えた聖徳太子は、満を持して607年に小野妹子(おののいもこ)を使者として、二度目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は二代目の煬帝(ようだい)が務めていました。
「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿に現れると、手にした我が国からの国書を読み始めました。すると―。



いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
隋との交流がさらに活発になるのですね。
我々日本鍼灸の歴史も少しづつ始まります。
それ以前にもあったようですが
隋に教えられたことも多く
奈良平安へと確立していく元になったようです。
「すると―。」?
続きを楽しみにしています。
応援♪
さすがの隋もどうにもできず?
オバrev 用意周到、準備万端、そして大胆にして、緻密な戦略をたて、相手がその道しか進めなくしてしまう。
さすがの大国隋の皇帝もどうしようもできなかったんでしょう。
おったんですねぇ、日本にもこういう政治家が・・・。
さすらいさんへ
黒田裕樹 > こんにちは。
> 隋との交流がさらに活発になるのですね。
> 我々日本鍼灸の歴史も少しづつ始まります。
> それ以前にもあったようですが
> 隋に教えられたことも多く
> 奈良平安へと確立していく元になったようです。
仰るとおり、隋との交流は我が国にとって何物にも替えがたい財産となりました。
しかし、文化交流だけが財産ではないんですよね…。
> 「すると―。」?
> 続きを楽しみにしています。
有難うございます(^o^)丿
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 用意周到、準備万端、そして大胆にして、緻密な戦略をたて、相手がその道しか進めなくしてしまう。
>
> さすがの大国隋の皇帝もどうしようもできなかったんでしょう。
まさに今後の私の講座の「予告編」となるお言葉ですね。有難うございます!
> おったんですねぇ、日本にもこういう政治家が・・・。
人材豊富は我が国の昔からの「お家芸」なんですよね。現代でも、決して人材不足ということはないと思いますが…。
ヒロキ 「・・・日出づるところの天子・・・」で有名な文ですよね!
今思えばよくあんな文章を送れたなって思います。
高句麗や百済が隋に対抗していたからこそ書けた文章だったんですよね^^;
さすがは聖徳太子だったと思いますね♪
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 「・・・日出づるところの天子・・・」で有名な文ですよね!
> 今思えばよくあんな文章を送れたなって思います。
> 高句麗や百済が隋に対抗していたからこそ書けた文章だったんですよね^^;
> さすがは聖徳太子だったと思いますね♪
仰るとおりです。そのあたりの流れをこれから詳しく紹介しますので、どうぞご覧になって下さいね(^o^)丿