中でも607年に斑鳩(いかるが、現在の奈良県)の地に建てられた法隆寺(ほうりゅうじ)は、聖徳太子自身が建立(こんりゅう)したことで有名です。法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、寺自体も世界遺産に登録されています。
尚、法隆寺は建てられた地名から、別名を「斑鳩寺」(いかるがでら)といいます。ちなみに、JRの線路(=関西本線)によって(四)天王寺駅と法隆寺駅がつながっているのは面白い偶然ですね。両駅間は直通の快速で約21~24分で行けます。
また、聖徳太子は仏教を信仰するために、みずから高句麗(こうくり)の高僧(こうそう)であった恵慈(えじ)に仏教を学び、後には仏教の法典(ほうてん)の注釈書(ちゅうしゃくしょ)である三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著(あらわ)しました。
このとき、聖徳太子が恵慈から学んだのは仏教だけではありませんでした。恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋(ずい)の情報などを詳しく学んだのでした。
東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました―。



いつも有難うございます。
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ヒロキ 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
もしかして渡来人だったのですか?
>聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていました
もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
- 聖徳太子の「重大な決意」・・・
気になりますね、なんでしょうか?
歴史がめっきりなんで、見当が・・・(^_^;)
明日の記事を楽しみにしておきます(*^_^*)
さすらい こんばんは。
聖徳太子の政策はどんどん進んでしますね。
「重大な決意」
総辞職会見や解散宣言
はたまた離婚会見なら
面白いんですがね(爆)
応援♪
えめる 記事とチョッと視点がずれますが、歴史的建造物である法隆寺。木の性質をとことん上手く利用して立てられているため、長持ちなんだそうですね。
ひと山まるごと買い取って、南の樹は南の位置に、北の樹は北にというように、生えているとおりに使うんだそうです。
樹の癖を、そのまま生かすって言うことらしいです。
もうその技術も継承者がほとんどいないそうです。
これも、歴史の一幕になるのでしょか。
ぴーち こんばんは~^^
今日は法隆寺の話題なんですね!
それと三経義疏というんですか。
初めてお名前は聞きました。
もしかして、法華経もこのうちの一つでしょうか・?
重大な決意。。
さて、なんでしょうか^^
明日を楽しみにしています!
私の記事にいただいたコメントのお返事は、
明日また、書かせてくださいね!
同心姿の黒田さん、きっとお似合いだと思いますよ~
私は、お姫様タイプよりも、アクティヴに女忍者などが良いですね~(笑
同心に追われて、逃げ惑っています(^0^
(冗談です^^)
それでは、応援凸
いつも脱線してしまい、恐縮です(><)
また、お邪魔します!
グローバリズム
tycoont 黒田裕樹さん、こんにちは

当時、仏教を普及させるという考えは、
世界の最先端の思想や文化を取り入れると
いうことなんですかね~

現代に例えるなら、「グローバリズム」・
「グローバルスタンダード」を取り入れるように・・

報道ギャング 斑鳩寺と飛鳥寺(?)っていうのを勉強したような気が……
2つのお寺にある像がややこしかったですw
何とか如来とか、何とか釈迦とか
……資料集を見直します!w
夢殿
sisi 私も昔は学生時代、
法隆寺夢殿いきましたよ。古き香りがすごいですね。
ブログ村投票しました。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 > 恵慈と言う人物はなぜ日本に来たんでしょうか?
> もしかして渡来人だったのですか?
恵慈は高句麗の僧で、595年に来日し、615年には帰国しています。従って、我が国に渡来はしているものの、土着した帰化人ではなく、むしろ明治初期に西洋文化を学ぶために招かれた「お雇い外国人」に近いイメージがありますね。
余談ですが、最近の歴史教科書では「帰化人」のことを「渡来人」と書いているのが多いようですが、この表現だと、今回の恵慈のようなパターンにおける区別がつきにくくなって困りますよね。
> もしかして、遣隋使の派遣のことですか!?
さぁ(ニヤリ)?
13日の更新をお楽しみに!
名無し?さんへ
黒田裕樹 ご期待下さり、有難うございます。13日の更新を楽しみにお待ち下さい!\(^o^)/