朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、北方の高句麗(こうくり)が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅(しらぎ)もまた、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国でも新羅を攻めるために任那へ大軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅は、現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで、527年に反乱を起こさせました。いわゆる磐井の乱のことです。鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村(おおとものかなむら)の意見によって、任那西部の四郡を、隣国で朝廷との友好国であった百済(くだら)が支配することを認めました。
支配地が減った任那はその後次第に衰退し、ついに562年には新羅に滅ぼされてしまいました。この結果、我が国は朝鮮半島における拠点(きょてん)を失ってしまったのです。



いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
任那が滅ぼされ朝鮮半島の拠点を失ったようですが
今現在拠点が残っていれば支配は出来ているのだろうか?
核実験等問題だらけの国を支配していれば
こういった行動を防げたのかな?
大和朝廷も気が抜けんなぁ
オバrev 外から、内からと策略が渦巻いていたんですね。
大和朝廷も気がぬけませんねぇ。
磐井の乱って、高校日本史であったような、覚えてないような(^^;?
磐井さんは、何かよほどおいしいアメをちらつかされたのかな?
海豚 そういえば今日の新聞に
「卑弥呼の墓」について書いてありました・・・!!
(関係なくてすいませんっっ)
すっごい大きいんだとか。。。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島はこの後も様々な国が興亡を繰り返し、時には他の国の支配下におかれることもありました。
任那にしても、この後1500年近くも我が国が支配し続けることは、かなり難しいといわざるを得ないのかもしれません。
現代においては、独立国家には一定の主権が認められています。ただ、その国の主権が、他の国の主権を大きく損ねることがあってはならないと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 内憂外患(ないゆうがいかん)は独立国家の宿命ですからね。
起きるのは仕方ないとしても、どうやって解決していくかが腕の見せ所でしょう。
仰るとおり、磐井の乱は高校日本史に登場します。九州地方は半島や大陸とも近く、大和朝廷とは距離的に離れていたので、支配が及びにくい一面もありました。それゆえに反乱鎮圧に2年もかかった実力者である磐井には、「朝廷何するものぞ」という気概があったのかもしれません。
そこへ新羅から誘いがあったとすれば、まさに「渡りに船」といったところでしょうか。
海豚さんへ
黒田裕樹 こんばんは!
記事と直接関係なくてもコメント歓迎ですよ(^^♪
載っていましたねぇ~。夕刊で確認しました。
箸墓古墳は全長280mの大きな前方後円墳ですが、独特の科学的な測定法で240~260年の築造であるとはじき出したみたいですね。
卑弥呼の墓だとすれば、邪馬台国は大和にあったということになり、以前に私が仮説として紹介した「邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされた」話との関連性も出てきますし、個人的には大いに興味があります。
卑弥呼は実在したのか、ですか…?
卑弥呼の存在は中国の歴史書にしか載っていませんが、少なくともこの当時に彼女のような呪術的な支配者がいたのは、古墳の副葬品などからまず間違いないと思われます。
ちなみに、箸墓古墳についてはこの講座でも以前に下記の記事で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-60.html
ヒロキ 大伴金村が任那西部の四郡を、百済が支配することを認めたから、五経博士が来日したと聞いたことがあるのですが、どうなのでしょうか??
そして、のちに任那が新羅に滅ぼされたから大伴金村は衰退していったのですか??
お久しぶりです
清家淳子 久しぶりに訪問したら大和朝廷になってる(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
お久しぶりです
清家淳子 黒田先生、お久しぶりです(^O^)/
久しぶりに訪問したら大和朝廷になってるし(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
ことぶきのこめや 歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし任那が残っていたらと考えると、ロマンを感じてしまいます(笑)