従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が、山の中腹(ちゅうふく)や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。
群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に伸びることにより、当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。
かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしたのです。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
古墳の発展もやはり文化だったんですね。
我々後世の人間も
それで当時の時代背景がわかるのですから
古墳は貴重ですよね。
応援♪
ヒロキ この頃に、蘇我馬子や筑紫国造磐井の古墳が出てくるんですよね(*^_^*)
農民も古墳を作れるようになるって大きな進歩ですね!!
こみー 群集墳は初耳ですね。
歴史的な物が全くダメな人間の意見ですが、
たくさん古墳が出来ると言うことは、作る方にも
かなりの負担がかかったんじゃないですか?
ひとつ作るのも大変そうですし・・・
bunyan こんばんは~
確かに6世紀になると古墳も変化してきていますね。
地方の大豪族も姿を消して、それまでの前方後円墳から円墳に変化しています。
大和朝廷の力が突出した証でしょうね。
さすらい様
黒田裕樹 古墳の調査によって、当時の人々の暮らしや文化などの様々なことが分かりますから、仰るとおり貴重な文化遺産だと思います。
明日以降は古墳時代後期の文化を具体的に考察しますので、是非ご覧下さい!
ヒロキ様
黒田裕樹 はい、その当時の古墳の話です(^^♪
農民でも古墳をつくれるということは、どんな意味があるのでしょうか?
…明日以降の講座で詳しく分析します。
こみー様
黒田裕樹 群集墳は主に高校の教科書で出てきますから、これから学習することになると思いますよ。
仰るとおり、古墳をつくる作業は大変です。だからこそ、「逆転の発想」も出てくるんですよ。
一つ作るのが大変だとすれば、何度もつくりたくはないですよね。だとすれば、何か良いアイディアはないでしょうか?
詳しくは明日の講座で解説します。
bunyan様
黒田裕樹 本文にも書きましたが、6世紀になると、前方後円墳は畿内でしか見られなくなります。
ということは、仰るとおり大和朝廷の勢力が強くなったから、他の勢力が「遠慮」してつくらなくなった、という間接的な証拠になりますね。
それともうひとつの理由は、一般の有力者も円墳をつくるようになったことで、古墳の存在意義が激変したことにあるのです。
詳しくは明日書きますね。
ぴーち こんばんは!
私も少し前に、地元の古墳を取材させていただいた記事をUPしたのですが、
古墳の大きさや、形(前方後円墳)などの種類によっても、その人の位や財力が容易に知れるものなのでしょうか・・?初歩的な質問で恐縮です^^;
それでは、また、お邪魔します^^
朝、応援は済みです!
ぴーち様
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^^♪
ご質問の件ですが、大きさや形でもかなり分かりますし、古墳の内部や副葬品でも結構詳しく分かりますよ。
例えば、副葬品に銅鏡などの祭祀に関するものが多ければ古墳時代の前期で、武具や馬具などが多ければ中期だと見当がつきます。
では後期の主な副葬品は何でしょうか?
明日の更新をお楽しみに!