第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が崩御(ほうぎょ)された後、妃(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が、身ごもっておられるにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済、高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。そして5世紀に入ると、ようやく中国の歴史書から我が国に関する記載が復活します。
尚、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の第15代の応神天皇(おうじんてんのう)であり、応神天皇の子が第16代の仁徳天皇(にんとくてんのう)です。大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、この当時に世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
懐妊しながらも出兵ですか。
凄い!
気合い入ってましたね。
勉強になりました。
応援♪
ケンシロウ こんにちは。
身重でありながら新羅・百済・高句麗を
降伏させなければならなかったのだろうか?
このタイミングしかなかったってことだろうな。
こんばんは
ことぶきのこめや ちょっと質問ですが、黒田先生は、大仙古墳は仁徳天皇の陵だとお考えですか?
それとも、仁徳天皇の時代に世界最大級の前方後円墳を作ることができたくらい、朝廷に力があったという意味ですか?
さすらい様
黒田裕樹 神功皇后の伝説は、女性も天皇たる夫が急死し、自らは妊娠中というハンデをものともせずに戦ったという、男女の性差のない世界を見事に表現していると考えられますね。
確かに物凄い気合ですね(^^ゞ
ケンシロウ様
黒田裕樹 日本書紀によれば、神功皇后が朝鮮半島に進撃された際には大荒れの天気で、逆にそれが幸いして常識破りの短い時間で半島に上陸できたそうです。
この伝説が、ちょうど良いタイミングで朝廷が半島へ攻め込んだことを間接的に証明していると思われますね。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 学術的には否定説が有力視されつつありますが、私としては仁徳天皇陵という伝説には信憑性が高いと判断しております。
なぜなら、この時期は朝鮮半島へ攻め込むことができるくらい朝廷の力が強かったので、巨大な天皇陵をつくることができるだけの経済力があったと思われることと、以前に書いたように、仁徳天皇の仁愛に基づく伝説が、民衆をして進んで天皇陵を造営せしめたと考えられるからです。
ぴーち おはようございます!
神功皇后はお腹に子供が居たからこそ
大胆な行動が出来たのではないかしら・・。
既にお腹の中に一人、味方を付けて
居る訳ですしね^^
女性は身ごもると、途端に趣向や性格が
一時的に変わる人もいますがね!
凸
ヒロキ 神功皇后の伝説すごいですね(*^_^*)
確か150年間くらい中国史書から倭国の話が無いんですよね(>_<)
いったい何があったのか、ものすごく気になりますね!!
ぴーち様
黒田裕樹 なるほど、身ごもった女性は一時的に趣向や性格が変わることもあるんですか。その視点からだと、神功皇后の伝説にもうなづける要素が増えますね。
男性にはなかなか気づけない見方をご指摘下さって有難うございます!
ヒロキ様
黒田裕樹 仰ることはごもっともですが、実は「いったい何があったのか」は、今回の伝説のように、ちゃんと「古事記」や「日本書紀」に記録されているんですよ。
神功皇后の伝説は、ご指摘の「150年間くらい中国史書から我が国の話がない」時期の出来事です。
それだけに、皇后の伝説を「でっち上げ」だとする乱暴な学説が存在するのもまた事実なのです(´・ω・`)
外国の史書は信頼するのに、なぜ我が国の史書が軽視されるんでしょうか…。