「こんな無礼な書は二度と自分に見せるな!」
と言い放ったそうですが、だからといって我が国を攻める余裕は、実は隋には全くありませんでした。
なぜなら、高句麗との敗戦によって隋の国力が低下しているだけでなく、それでも無理をして我が国を攻めれば、同盟国である高句麗や百済が反撃する可能性も十分考えられ、リスクがあまりにも高すぎるからです。
当時の軍事や政治の情勢を十分に調査したうえで、隋との対等外交を一方的に宣言(せんげん)した聖徳太子の作戦勝ちでした。聖徳太子が我が国の気概(きがい)を見せた外交は、中国による冊封体制(さくほうたいせい)から脱け出すきっかけとなり、我が国が本当の意味での独立を果たし、また後に独自の文化が花開くための下地(したじ)をつくったといえるでしょう。
こんなことが出来たのも、我が国が島国なればこそです。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
我が国が島国だという利点ですね。
この利点を利用すれば
新型インフルエンザも鎖国出来るのに。
やはり日本人は幸せ者が多すぎます。
聖徳太子外務担当大臣?
オバrev 情報を収集し、的確な状況判断をして、相手の弱みにつけ込んだ外交・・・聖徳太子に今蘇ってもらって外務大臣をお願いしたいですね(^^;)
コメント有難うございます!
黒田裕樹 ケンシロウ様
「島国であること」の利点を最大限に活用したのが聖徳太子であり、鎖国状態になった当初の江戸幕府でした。
それに比べて現在の我が国は…。
ケンシロウ様のようなお考えの方が多ければ良いと思うのですが。
オバrev様
聖徳太子は推古天皇の摂政でしたから、総理大臣も兼ねていたわけです。
トップが優秀だったら、いかに国が安全か、という見本ですよね。でも、外務大臣でも良いから、本当に蘇ってほしい人物です!
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聖徳太子は、隋と最前線で戦う高句麗や、古くから付き合いのある百済と三国で同盟を結んだ後、607年に小野妹子(おののいもこ)を使者として遣隋使(けんずいし)を送りました。その際に隋に送った国書(こくしょ)が、有名なあの文面です。
「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無きや(つつがなきや、お元気ですか、という意味)」。
国書の内容を簡単に言えば、我が国と隋とをお互い「天子」と同じ立場で表現することによって、それまでの朝貢という上下関係から、天子同士の対等関係の外交を結びたいとする、聖徳太子の毅然(きぜん)とした意思表示(いしひょうじ)でした。




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