この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗(こうくり)、百済(くだら) 、新羅(しらぎ)のみならず、我が国にも大きな衝撃を与えました。
なぜなら、新たなる統一国家である隋の誕生によって、大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアの政治情勢が非常に微妙な状態になってしまったからです。
統一後、隋は文帝の子である煬帝(ようだい)が陸続きの高句麗に積極的に遠征して、国力を高めようとしました。一度は隋の攻撃を跳ね返した高句麗ですが、危機にあることに変わりはありません。
隋の動向によっては、朝鮮半島がすべて侵略されるばかりか、我が国にも攻め寄せる可能性が十分考えられました。そうなればまさに亡国の危機であり、我が国は非常に難しい立場に追い込まれてしまいました。
果たして、我が国にはこの危機を回避できる秘策があるのでしょうか―。
(これで古墳時代は終了です)



いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
小野妹子が隋に渡り聖徳太子からの手紙を煬帝へ渡した際
その内容に立腹した煬帝からの返事を
聖徳太子に見せられないと判断した小野妹子は
その手紙を無くしたと報告したと聞いたことがあります。
日本書紀によると小野妹子は
煬帝からの返事を百済人に取られたと書いてありますが
いったいどちらが正しいのでしょうか?
およよのよ 煬帝は酷い暴君だったらしいですね。
まさに日没する処の天子。
大運河を作るために民を虐げたんでしたっけ。
南船北馬という言葉は其処から来たんですよね。
北へ行くには馬が便利で南へ行くのは運河で行くのが楽って意味で。
すいません、漫画の知識です。
弥生時代や古墳時代はさっぱりでも大和時代になると結構分かってきました。
豆知識:BIGLOBE検索で聖徳太子と検索すると関連検索にハーブの香り 聖徳太子が出る。
ハーブの香りて何やねん(笑)
ヒロキ 見方によっては、
隋vs高句麗、百済 、新羅、日本
という風に見れますね^^
「敵の敵は味方」的な。。
こうした時代に遣隋使を送るのはすごいんですね(^o^)
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 今となってはどちらが正しいか分かりませんね。
ただ、小野妹子が隋からの国書を失くすという大チョンボをしながら、大した罪に問われなかったことを考えれば、聖徳太子もある程度は「内容」を予想しており、妹子が「政治的配慮」で「失くした」ことが理解できたのではないかと思います。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > まさに日没する処の天子。
うまい!座布団1枚!(^o^)丿
> 大運河を作るために民を虐げたんでしたっけ。
> 南船北馬という言葉は其処から来たんですよね。
> 北へ行くには馬が便利で南へ行くのは運河で行くのが楽って意味で。
南船北馬の為に煬帝は多くの民を虐げました。でも皮肉なことに、彼の「功績」によって水運が発達して南北の交流が盛んになったんですよね。歴史にはこんな結果がよくあります。
> 弥生時代や古墳時代はさっぱりでも大和時代になると結構分かってきました。
いよいよ明日から新しい時代に入りますからね。およよのよさんからの鋭いご質問を期待しております(^_^)v
> 豆知識:BIGLOBE検索で聖徳太子と検索すると関連検索にハーブの香り 聖徳太子が出る。
> ハーブの香りて何やねん(笑)
それは増○こう○けさんの「ギ○グマ○ガ日和」に出てくる聖徳太子の一コマからです。YouTubeやニコニコ動画で検索してみて下さい(およよのよさんにはおすすめしないほうがいいかも?)。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 そうですね。「敵の敵は味方」という言葉の本当の意味を、聖徳太子が送った遣隋使から読み取ることが出来ますし、そんな彼の優れた外交感覚は、1400年前の出来事とは思えないくらい冴え渡っています。近日中にはこの講座でも紹介できると思いますので、お楽しみに!\(^o^)/
ぴーち こんばんは!
さすがに↑の皆さん、よくご存じでいらっしゃいますね^^;
すみません。関係ないんですが、増田こうすけさんの漫画、好きです(^m^)
太子の広川太一郎さん風な(もしかしてそうかも?)しゃべりがハマります・・
古墳時代の最大の難問?!
う~ん・・。分かりませんね(苦笑)
それではまた、教えていただきにお邪魔しますね^^
おやすみなさい!
さすらい こんばんは。
隋が来ましたね。
日本との交流も良いものだったと
信じたいですが。。。(笑)
応援♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ブログの醍醐味のひとつに「コメント」と、それに対する「コメ返」があるのですが、毎回「どう答えればいいのかな?」と四苦八苦しております(笑)。
「ギ○グマ○ガ日和」での聖徳太子は、人格があきれるほどに破壊されており、まさに「笑う」しかないのがツボですね。私もあるブロガーさんから紹介されてハマりました(^^ゞ
ちなみに、太子の声の出演は前田剛さんという方だそうです。
明日からの講座にも是非お越し下さい!
それではお休みなさいませ(-_-)zzz
さすらいさんへ
黒田裕樹 我が国にとって、隋との交流は留学生の派遣によって実りの多いものになりました。
隋にとってはどうだったのでしょうか…。答えが出る前に滅んでしまったような感じがしますね。
いつも有難うございます♪
朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。尚、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることによって、天皇の血縁者となることです。
やがて我が国に仏教が伝来すると、積極的に受け入れようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部氏や中臣氏(なかとみし)との対立が激しくなりました。
蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)は、天皇の後継者問題でも対立すると、587年にはついに両者の間で戦闘が行われました。この戦闘に勝利した蘇我馬子は朝廷の実権を独占しました。その権力の強さは、馬子と対立した第32代の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺させたほどでした。
ところで、蘇我馬子は男性です。当時は「○子」という名前が男女を問わずに用いられていました。「○子」で男性の有名な歴史上の人物が、少なくともあと1名いますね。



いつも有難うございます。
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bunyan こんにちは♪
留守中コメントありがとうございました。
今日昼過ぎに帰ってきましたが、写真の整理など、これからやるのも大変!
今日は何もせず休もうかと思ってますヽ(*’-^*)。
ぴーち こんにちは!
確かにもう一人、私には居ない?存在の名前がいますw
私も、下にいてくれたらなぁ~^^
人の名前はその時代ごとに変化しているのですね!
最近は、子がつく女の子を探す方が、大変なご時世となりましたね~^^;そのうち、男の子にまた「子」がつく時代も・・・?
それでは、応援させてくださいね!
およよのよ 小野妹子ですね。それとも聖徳太子?
~子は男子を表す字ってのは知っているんですが、(帰国子女とか)妹ってのは昔から女性を表す字だと聞いた覚えがあるのですが…どうなんでしょう。
さすらい こんにちは。
天皇を利用するのは、ずっと続きますよね。
海外でも王様や皇帝をうまく使ってきたのですから
人間の権力を求める性なんでしょうね。
応援♪
bunyanさんへ
黒田裕樹 こんにちは。
ご旅行お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね。
更新をお待ちしております!(^-^)v
昔の権力闘争
オバrev 欽明天皇と蘇我馬子、でましたね。
しかし昔の権力闘争って、ヤ○○の世界と変わらないような(汗)
しかも、義理人情のない・・・orz
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こんにちは。
私にもいません、というより一人っ子です…(´3`)
確かに最近は「○子」とつく女の子が少なくなりました。名前にも流行がありますから、仕方ないのかもしれませんが…。
いかに草食系男子が増えたからといって、「○子」の男子が登場するとは…ありそうで恐いですね(^^ゞ
いつも有難うございます!(^o^)/
およよのよさんへ
黒田裕樹 小野妹子で正解です。ちなみに聖徳太子の「太子」は、皇太子という意味の称号です。
仰るとおり、「子」は本来は男女に関係なく使われます。
一方「妹」は、上下に関係なく肉親のきょうだいから、妻や恋人に至るまで女性をさしています。
それだけに、なぜ「妹子」という名前が男性に使われたのか不思議ですね…(._.)
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。ただ、我が国と他国との大きな違いは、他国では権力者が王位を奪って自らがその地位に就くのに対して、我が国の場合は、大伴金村がそうであったように、天皇になるべき血筋の方を敢えて立てています。
我が国では、代々の天皇に尊い正当性を求めているのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに「その世界」の匂いがしますね~(^_^ゞ
特に馬子の場合、天皇陛下を暗殺していますから、余計にそんな感じがします。我が国の長い歴史で、配下に暗殺された天皇陛下はこの崇峻天皇だけですし。
ただ、この後でそんなイメージを一掃してくれるような政治家が出てきたのが救いではありますね(誰のことかお分かりですね?)。
朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、北方の高句麗(こうくり)が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅(しらぎ)もまた、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国でも新羅を攻めるために任那へ大軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅は、現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで、527年に反乱を起こさせました。いわゆる磐井の乱のことです。鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村(おおとものかなむら)の意見によって、任那西部の四郡を、隣国で朝廷との友好国であった百済(くだら)が支配することを認めました。
支配地が減った任那はその後次第に衰退し、ついに562年には新羅に滅ぼされてしまいました。この結果、我が国は朝鮮半島における拠点(きょてん)を失ってしまったのです。



いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
任那が滅ぼされ朝鮮半島の拠点を失ったようですが
今現在拠点が残っていれば支配は出来ているのだろうか?
核実験等問題だらけの国を支配していれば
こういった行動を防げたのかな?
大和朝廷も気が抜けんなぁ
オバrev 外から、内からと策略が渦巻いていたんですね。
大和朝廷も気がぬけませんねぇ。
磐井の乱って、高校日本史であったような、覚えてないような(^^;?
磐井さんは、何かよほどおいしいアメをちらつかされたのかな?
海豚 そういえば今日の新聞に
「卑弥呼の墓」について書いてありました・・・!!
(関係なくてすいませんっっ)
すっごい大きいんだとか。。。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島はこの後も様々な国が興亡を繰り返し、時には他の国の支配下におかれることもありました。
任那にしても、この後1500年近くも我が国が支配し続けることは、かなり難しいといわざるを得ないのかもしれません。
現代においては、独立国家には一定の主権が認められています。ただ、その国の主権が、他の国の主権を大きく損ねることがあってはならないと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 内憂外患(ないゆうがいかん)は独立国家の宿命ですからね。
起きるのは仕方ないとしても、どうやって解決していくかが腕の見せ所でしょう。
仰るとおり、磐井の乱は高校日本史に登場します。九州地方は半島や大陸とも近く、大和朝廷とは距離的に離れていたので、支配が及びにくい一面もありました。それゆえに反乱鎮圧に2年もかかった実力者である磐井には、「朝廷何するものぞ」という気概があったのかもしれません。
そこへ新羅から誘いがあったとすれば、まさに「渡りに船」といったところでしょうか。
海豚さんへ
黒田裕樹 こんばんは!
記事と直接関係なくてもコメント歓迎ですよ(^^♪
載っていましたねぇ~。夕刊で確認しました。
箸墓古墳は全長280mの大きな前方後円墳ですが、独特の科学的な測定法で240~260年の築造であるとはじき出したみたいですね。
卑弥呼の墓だとすれば、邪馬台国は大和にあったということになり、以前に私が仮説として紹介した「邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされた」話との関連性も出てきますし、個人的には大いに興味があります。
卑弥呼は実在したのか、ですか…?
卑弥呼の存在は中国の歴史書にしか載っていませんが、少なくともこの当時に彼女のような呪術的な支配者がいたのは、古墳の副葬品などからまず間違いないと思われます。
ちなみに、箸墓古墳についてはこの講座でも以前に下記の記事で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-60.html
ヒロキ 大伴金村が任那西部の四郡を、百済が支配することを認めたから、五経博士が来日したと聞いたことがあるのですが、どうなのでしょうか??
そして、のちに任那が新羅に滅ぼされたから大伴金村は衰退していったのですか??
お久しぶりです
清家淳子 久しぶりに訪問したら大和朝廷になってる(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
お久しぶりです
清家淳子 黒田先生、お久しぶりです(^O^)/
久しぶりに訪問したら大和朝廷になってるし(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
ことぶきのこめや 歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし任那が残っていたらと考えると、ロマンを感じてしまいます(笑)
第25代の武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩御(ほうぎょ)された際に、天皇には後継の男子がおらず、すわ皇統断絶かと思われました。
この危機を救ったが、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、第15代の応神天皇(おうじんてんのう)の五世の孫(「来孫」=らいそん、といいます)にあたる男性の男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(現在の福井県)から招いて第26代の継体天皇(けいたいてんのう)として即位させることに成功しました。
継体天皇には即位前に二人の男子がおられましたが、それぞれ第27代の安閑天皇(あんかんてんのう)、第28代の宣化天皇(せんかてんのう)として相次いで即位され、その後は継体天皇が即位後に武烈天皇の御妹との間に生まれた第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)が即位されました。
こうして神武天皇以来の皇統はつながりを保ち、現代にも脈々と受け継がれています。




いつも有難うございます。
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オバrev おぉ~!ということは継体天皇は初の女性天皇といういことですか。
大伴金村は当時かなりの権力者か策士だったんだろうなぁ。
女性天皇だけれど、男系天皇なんでしょうね。
さすらい こんばんは。
体制や時代を継続するのは大変ですよね。
現代の問題もまだまだ論議があると思います。
応援♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 継体天皇は応神天皇の血を引く男性の天皇で、武烈天皇の妹と結婚することによって皇室の血の断絶を未然に防ぎました。
我が国初の女性天皇は、6世紀末に即位する男系の天皇です。
文章に誤解を招く表現があったかもしれませんので、修正しておきました。
仰るとおり、大伴金村は当時かなりの権力者だったと思われますが、そんな彼が、自分が支配者になることなく天皇の後継者を招いたという事実が、当時から皇室が特別な存在だったことを間接的に証明していますね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現代の皇室には後継たる男子が少ないことが問題になっている面があります。
こんな時こそ、今回のような先人の智慧に学んで、我が国のかけがえのない至宝をどのように守り抜くかを真剣に考える必要があると思われますね。
Re:女性天皇
オバrev 黒田先生 連コメ失礼しやす。
そうでした、最初の女性天皇は確か推古天皇だったと記憶してます。
いずれ話にでるかもしれませんが、男系とはいえ、そうとう抵抗あったでしょうね。
ぴーち こんばんは!
なるほど。。男子を必ず儲けたいと願っていても、こればかりは必ず男子が生まれるとは限らない問題ですので、特に
皇室関係は深刻な問題にまで、発展してしまいますよね。
現代でも、雅子妃殿下には、女の子のお子様一人。紀子様には、男子がお生まれになりましたけれど。。女系天皇問題は、まだ残したままですね。。
それでは、応援凸
また、お邪魔させてくださいね~^^
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、連コメ大歓迎ですよ(^_^)v
仰るとおり、我が国初の女性天皇は男系の推古天皇です。
彼女の即位までの経緯には、様々な人間ドラマがありました。
月が替わる頃にはお話できると思いますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり非常に深刻な問題であり、悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下のご誕生がなければもっと大変なことになっていただろうと思われます。
皇室にかかわる問題については、「女性」天皇と「女系」天皇との決定的な違いを理解したうえで慎重に対応すべきと考えておりますし、今回のような「ひ孫の孫」にあたる血縁者でも立派に継承できるという先例も軽視してはならないと思っております。
それでは、またのお越しを心よりお待ちしてます!
ヒロキ 高校の日本史では、継体天皇から細かいことを習いますよね!
継体天皇の即位にはそんな背景があったんですね!
勉強になります!!!
こんばんは
mee; 現代にも脈々と受け継がれています
のところで、ざわっとしました
すごいですねぇ
なぜ、皇位継承問題がいわれるのか少しわかった気がします
一方、朝廷も直属の民である名代(なしろ)・子代(こしろ)をもち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である屯倉(みやけ)を各地に設けて、田部(たべ)に耕作させました。
朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々な職務がありましたが、これらは伴造(とものみやつこ)と呼ばれる氏(うじ)が分担しました。
伴造に選ばれたのは、秦氏(はたし)などの帰化人(きかじん)を祖先にもつ豪族が中心であり、伴(とも)と呼ばれる世襲(せしゅう)の職業集団や、品部(しなべ、または「ともべ」)と呼ばれる職務における能力者を統率して朝廷に仕えました。
なお、部曲や名代・子代、品部などを総称して、部民(べのたみ、または「ぶみん」)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev このあたりから、突然漢字の読み方が難しくなるんですよ。
特に、部曲(かきべ)、屯倉(みやけ)、伴造(とものみやつこ)とかはどうやっても読めん(T_T)
オバrevさんへ
黒田裕樹 大和言葉と漢字との融合によって、現代では考えられない読み方になっていますからね。
普段はお勧めしませんが、今回に限っては暗記したほうがいいのかもしれません(´・ω・`)
さすらい こんばんは。
そうそう、思い出しました。
中学か高校で「屯倉(みやけ)」を
なかなか覚えられなくて困ったことがありました。
今でも読めませんが(笑)
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 「屯倉(みやけ)」は確かに読めませんね(^^ゞ
ちなみに「土産(みやげ)」の語源になっているらしいですが…。
こんな風に、逆のやり方で覚えた方がいいのかもしれませんね。
ケンシロウ こんにちは。
ブログ記事とは関係ありませんが
先生おいらよか若い。
ウワァァ━━━━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━━━━ン!!!
ぴーち こんばんは!
なるほど~とこちらへお邪魔させていただいて、記事を拝見しているうちは、漢字の読み方もそうなのか~と思うのですが、
多分、一度寝て、明日の朝には、漢字にふりがななしでは絶対判らないと思います(^^A
と書いている内にも、もう忘れてます(><)
でも、本当に独特な言い回しが多いですね~。。
黒田さんの所はそういう意味で、刺激的です!
また、お勉強させてください^^
応援凸
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 そ、そんなこと言われたって、どうしたらいいのか分かんないよ…
。・ ゚・。* 。 +゚。・.。* ゚ + 。・゚・(ノД`)ウワァァァン!
思わず乗ってしまった…。
泣かないで(笑)、また是非お越し下さい。
管理人のみ閲覧できます
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 刺激的とは有難いお言葉ですが、確かに読み方難しいですよね。
というより、この3日間、言葉の羅列(られつ)だけで終わっているような気が…(^^ゞ
いずれも大和朝廷の政治制度を理解するには欠かせない用語なんですが、もう少し理解しやすい教え方があってもよさげな気もしますねぇ…(@_@;)
明日からまた新しい単元になりますが、今回学習した用語が結構出てきますので、「読みながら」ご確認下さいね!(^^♪
いつも応援有難うございます!(^o^)丿
ヒロキ 屯倉と田荘がゴッチャ混ぜになりますね^^
いつもどっちかで悩んでましたww
また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)、あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には連(むらじ)が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の有力豪族には君(きみ)が、それ以外の一般地方豪族には直(あたえ)が与えられました。
中央の政治は、臣や連の姓をもつ豪族から有力な者が大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)として選ばれ、彼らを中心として進められました。
一方、地方の豪族からは、国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)などの地位が与えられ、それぞれの地方の行政を担当しました。



お蔭様でカウンターが2000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 大化の改新ころ蘇我入鹿とか出てきてたと思うのですが・・・ウン十年前の記憶 ^^;
あと物部氏とか大伴家持とか中臣鎌足とか出てきた記憶も・・・。
豪族達は皆さん姓をもってたんですね。
ところで、氏はそれぞれ名前がついてたんですか?
中臣鎌足は何氏に属しているとかあったんでしょうか??
承 なかなか大変ですが、skypeのおかげでさびしさは感じませんw
甲子園にそんな選手が実在したんですか!?笑
ヒロキ 日本史でいつも思うのですが、
読み方が独特ですよね^^;国造もそうですが人名などww
誰がそう読んだのですかね・・・。。
さすらい こんばんは。
名前をたどっていくと面白いですよね。
歴史上、潰された一族も
残っていれば多彩な名前があったでしょうね。
2000ヒットおめでとうございます。
これからも楽しみにしています。
プロフ、きっちり載せられたのですね。
凛々しく格好いいです!
応援♪
えめる 自分の苗字のルーツをたどると、
もしかして何かいいこと(?)が分かるのでしょうか。
せ、せんせいっ。写真!公開ですね。すてきです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 蘇我入鹿も、物部氏(物部守屋)も、大伴家持も、中臣鎌足も有名な歴史上の人物ですね。これから私の講座でもとりあげる予定です。
仰るとおり、それぞれ「○○氏」と呼ばれる一族に属しています。
中臣鎌足も、もともとは「中臣氏」の一員でした。彼が死ぬ直前に当時の天智天皇から与えられた姓の一族が、その後の我が国の歴史をになっていくことになりますね。
承さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。逆境に負けずに頑張って下さいね。
甲子園の選手については、承さんのブログにコメントさせていただきましたm(_ _)m
ヒロキさんへ
黒田裕樹 読み方が独特なのは、本来我が国にあった「大和言葉(やまとことば)」に、外国から伝わった漢字の音を無理やり当てはめたからだと考えられています。
でも、その「当てはめ」から、やがて漢字の訓読みや、ひらがな・カタカナが用いられるきっかけにもなるのですから、歴史は面白いですよね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。長い歴史の中で埋もれてしまった一族も多いですから、名前の種類は現代よりもはるかに多かった可能性もあると思います。
> 2000ヒットおめでとうございます。
> これからも楽しみにしています
有難うございます。2000ヒットとブログ開始からちょうど2ヶ月経ったのを機に、自分のプロフを公開することにしました。これからも自分の文章に責任を持てる内容を目指しますので、宜しくお願いします。
えめるさんへ
黒田裕樹 皆さんそれそれの苗字に歴史がありますから、たどっていくと何か興味を持てることが見つかるかもしれませんね。
2000ヒットとブログ開始2ヶ月を機にプロフを公開することにしました。過分のお言葉、恐縮です(^^ゞ
大和朝廷は、5世紀末から6世紀にかけて、当時は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。
朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された氏(うじ)と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が、氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。
朝廷では、各氏の家柄(いえがら)や能力に応じて姓(かばね)を与え、朝廷のもとに組織させました。このような政治的な身分秩序を氏姓制度(しせいせいど)といいます。
なお、皇室には氏に相当する特定の呼び名はありませんでした。これは、当時から皇族には他と区別する必要のないほどの権威があったからで、現代の皇族が名字をお持ちでないのも、この流れをくんでおられます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
朝廷はもうこの頃から、姓が与えられたわけですね。
皇室は確かに、○●宮様や、○●親王殿下など
呼ばれていますものね。
先走ってた質問で恐縮ですが、
一般の民(こういう言い方をするのかは存じませんが)
が苗字を与えられたの
は、明治時代からだったでしょうか。
それでは、応援させてください^^
ぴーち様
黒田裕樹 皇族が名字がお持ちでないのも、長い歴史の流れとつながっているんですよね。
> 一般の民(こういう言い方をするのかは存じませんが)が苗字を与えられたのは、明治時代からだったでしょうか。
明治になって、庶民(しょみん)が苗字を持つことを許されたのは事実ですが、それまでに「隠れ苗字」を持っていた人も結構多かったということです。
こんばんは!
瀞子(seiko) 黒田裕樹さん、こんばんは!
先日は私のブログへコメントありがとうございました^^
こちらへ来て、黒田さんの日本への、そして歴史への愛情に驚かされました!そしてさらに、以前のブログに社会人をされてから教師になられたと書かれたことにも驚きです!!
それから、歴史を学ぶにカテゴリされている記事で、歴史をただ暗記しても意味がないと言われていたこと、本当にそうだと思います。
私は、これまで母国の方々が生きてこられた軌跡を、自分の血肉にしてそして次の世代の人たちに伝えていきたいと思っているので、とても黒田さんのお言葉に共感致しました。
小まめに更新するのは大変だと存じますが、応援しておりますので頑張ってください!
ヒロキ 名前は地名や職業から由来していますよね!
朝廷の直属民である名代・子代には名前(もしくは呼び名)はついていたのでしょうか??
さすらい こんばんは。
そういえば、皇室から
黒田姓になられた方がいましたね(笑)
氏の始まりを見るのも面白いものですね。
応援♪
瀞子(seiko)様
黒田裕樹 過分のお言葉、有難うございます!
瀞子(seiko)様が仰った「これまで母国の方々が生きてこられた軌跡を、自分の血肉にしてそして次の世代の人たちに伝えていきたい」という思いが、こんな私を安定(?)していた社会人生活から、教師への転進を決意させました。
念願かなって教師となり、初めて教壇に立ったときの感動は一生ものです。
現在では一旦遠ざかっておりますが、再び挑戦できる日を目指して、自分がこれまでに勉強してきた知識や思いを、ブログに託して続けております。
毎日の更新は決して生易しいものではありませんが、瀞子(seiko)様のように温かく見守ってくださる読者がおられることに深く感謝して、これからも続けていきますので、宜しくお願いします!
ヒロキ様
黒田裕樹 > 名前は地名や職業から由来していますよね!
そのとおりです。例えば、海部(あまべ)は、漁業と航海技術で活躍したからその名がついていますね。
> 朝廷の直属民である名代・子代には名前(もしくは呼び名)はついていたのでしょうか??
王家の名(長谷部=はせべ)や、職名の名(刑部=おさかべ)がついていたようですよ。
さすらい様
黒田裕樹 はい、黒田慶樹さんの奥様ですね。
ご結婚がお決まりになった際にはずいぶん冷やかされました(苦笑)。何しろ一字違いですから。
偶然とはいえ、恐れ多いことです。
ちゃてれ おはようございますー。
カウンターが2000を突破しましたねー!!
おめでとうございます~
いつも記事に関係ない
こんなコメントばかりですみませんー。
ちゃてれ様
黒田裕樹 いえいえ、コメントのお気持ちだけで十分です(^-^)v
今後とも宜しくお願いします。
春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり)は特に重要な行事であり、この頃に流入した外来文化とも融合(ゆうごう)して、我が国独自の伝統文化が形成されていきました。
尚、祈年祭や新嘗祭は、皇室の重要儀式として現代においても行われています。また、新嘗祭は明治以後は大祭日となり、現在でも「勤労感謝の日」という名の国民の祝日として残っています。
当時の人々は、海や山などの自然に神が宿ると信じて自然神を祀(まつ)ったり、祖先の神を祀るための社(やしろ)をつくったりしました。また、心身の汚(けが)れをはらい、災いから免れるために清らかな水に入って体をすすぐ禊(みぞぎ)や祓(はらい)を行い、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)も行われました。
さらには、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽(しんぎ)を判断するという神判(しんぱん)の盟神探湯(くかたち)も行われました。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 祈年祭と新嘗祭は現在でも行ってるんですか!?
名前は知っていたのですが、実際に見たことないので興味あります(*^_^*)
この頃は呪術的な占いが多いですね。
ケンシロウ こんにちは。
盟神探湯(くかたち)って初めて聞きますが
こんな時代から訳の分からん宗教団体のようなことを
やっていたのですね。
ヒロキ様
黒田裕樹 祈年祭も新嘗祭も皇室の儀式なので、残念ながら私も実際に目にしたことはありません。
占いが多いのは、呪術的な力で政治を行っていた名残でしょう。政治のことを現在でも「まつりごと」といいますし。
新嘗祭は現在では11月23日に行われています。追記しましたので、また是非ご覧下さい。
ケンシロウ様
黒田裕樹 古代には科学という概念がなく、呪術的な力がすべてを支配していましたから、現代においては仰るとおり「訳の分からん宗教団体」しかやらないことをやっていたんですね。
ちなみに時代は下って、足利義教や織田信長も似たようなことをやっています。
さすらい こんばんは。
まだまだ人間的に発展途上
だったんですね。
まあ、現代でも人間なんて未完成ですが
「熱湯の中に手を入れさせ」
はキツイですね。
せめて熱湯風呂で笑わせて欲しいです(笑)
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 「熱湯風呂」とはいいですね~(笑)
もっとも、TVでは演出だけで、実際には違うらしいですが…。
科学の力が証明されていない時代だったですから、人間の限界を超えることを平気で行っていたのかもしれませんね。
有難うございます!
くかたち・・・
h.hamauzu おはようございます。
くかたち・・・こんな字だったんですね。
学生時分より恐ろしいとは思ってましたが・・・
私は肌が弱いので、有罪確定ですw
おはようございます。
スズメちゃん 祈年祭や新嘗祭など、皇室の行事として耳にしたことがありますが、
この時代から続いていたのですね!
それが、勤労感謝の日として残っているなんて・・・
歴史を知るって、面白いですね。
残念ですね
オバrev 歴史講座の延期は残念ですね。早くこの騒動が収束してくれることを願ってます。
なるほど、新嘗祭が勤労感謝の日の元だったんですね。
この自然神を敬うというのは、縄文時代のアメニズムから続いていて、日本人のDNAとして刻まれているんじゃないかと思います。
h.hamauzu様
黒田裕樹 盟神探湯は確かに恐ろしいですよね。
肌の強弱に関係なく、ただれない人はいないと思いますが…。
あるいは勇気を試していたのかもしれませんね。
コメント有難うございます!
日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中ごろになると、朝鮮半島から伝わった技法による、硬質で灰色の須恵器(すえき)もともに用いられるようになりました。
また、当時の男性は、筒袖(つつそで)の衣に乗馬ズボン風の袴(はかま)を着用し、髪を左右に分け、耳のところで三つ編みなどに束ねる美豆良(みずら)に結っていました。一方、女性は筒袖の衣にスカート風の裳(も)を着け、大きな髷(まげ)を結い、耳や首、腕などに装身具(そうしんぐ)を身につけていました。
これらの姿は、古墳から出土した人物埴輪(じんぶつはにわ)に表現されています。




いつも有難うございます。
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ヒロキ なるほど!!あの独特な髪形は美豆良っていうんですかね(*^_^*)
勉強になります!!
ぴーち こんばんは!
この時代から、女性は装飾品を身に付けるようになっていたんですね^^
男性が髪をみつあみしていたんですね。確かに
そういうイラストを拝見した事があります^^
現代の男性も同じようにしている姿、見てみたいですが’笑
それでは、応援です凸
店長 こんばんは。
あらあら・・
インフルエンザの影響で延期ですか・・
もうすぐでしたので、テンションを維持するのは
大変でしょうが、仕方ない・・・・・ んですかね?
いずれにせよ、がんばってください。
応援してます。 では
ヒロキ様
黒田裕樹 美豆良(みずら)は「角髪」とも書きます。中国大陸から冠が普及するまでは、貴族の髪型の定番でした。冠をかぶるようになってからは、主に少年の髪型になります。
聖徳太子像で、太子の両脇にいる子供たちが美豆良の髪型をしていますね。
ぴーち様
黒田裕樹 有難うございます(^^♪
美豆良は見た目が結構可愛らしいですから、案外今のイケメンに似合うかもしれませんね。そういえば10年ほど前に本木雅弘氏が聖徳太子を演じた際に、少年時代の太子を美豆良のカツラを付けて演じていました。
店長様
黒田裕樹 ギリギリまで開催しようかどうか迷っていたんですが、休校こそほとんどの地域で解除されたものの、終息宣言が出された訳でもなく、一週間後に再び蔓延しないという保証がない以上は、大事をとりました。残念です(>_<)
とはいえ、中止ではなくあくまで「延期」ですから、モチベーションを落とすことなく、普段のブログの更新に励むことにしますので、今後とも是非お越し下さい。
ケンシロウ こんにちは。
講座は6月に延期されたようですね。
新型インフルエンザの影響って恐ろしいですね。
さすらい こんばんは。
少しずつ我が国も
身なりの文化が出来てきたんですね。
千年後、我が国の未来人は
昭和、平成の時代の身なりを見て
どう思うんでしょうね(笑)
応援♪
ケンシロウ様
黒田裕樹 無念ですが1ヶ月延期です。
その分、時間をかけて完璧な講義が出来るようにしたいです。
…新型インフルエンザ、来月末までには収束してほしいですよね(´・ω・`)
さすらい様
黒田裕樹 埴輪のお陰で、当時の服装がわかるようになりましたね。
今から1000年前といえば平安時代。貴族の男性は束帯・衣冠で、女性は女房装束でしたが、風流さが感じられますね。
西暦3000年の我が国はどうなっているのでしょうか…。
これらは、家族墓(かぞくぼ)的な性格をもつようになったことによって葬送儀礼(そうそうぎれい)も変化し、副葬品も、それまでの故人の権威を示すという意味から、故人の生前の思いが込められた内容に変化していったことをあらわしています。
また後期の古墳には、九州地方を中心に、古墳内部の壁や石棺(せっかん)に朱色などの顔料を用いた彩色壁画(さいしきへきが)が描かれた装飾古墳(そうしょくこふん)がみられるようになり、古墳の地域による違いがはっきりしてきました。
これらの古墳の変化が定着することにより、やがて権威の象徴としての古墳は意味をなさなくなりました。そして、7世紀半ばには墳墓の大きさが制限され、古墳文化は終焉(しゅうえん)を迎えたのでした。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
そうなんですか。
また勉強になりました。
何でもカンでも埋葬すりゃあいい
ってもんじゃないですよね(笑)
故人の権威もなくなれば
古墳の意味合いも変わりますよね。
応援♪
こんにちは
ことぶきのこめや この狭い国土で、古墳が作り続けられたら、お墓で埋まってしまいますから、終焉してくれたよかったです(笑)
このような流れで古墳時代が変遷していったというのは、あまり意識したことがなかったので、勉強になりました。
壁画については、世界中でそうですが、紙のない時代に、なんであんなに上手に、同じような絵が描けたのかが不思議です。
ヒロキ なるほど、もうこの時点で葬送儀礼というのは今のような意味合いになってきたんですね(*^_^*)
装飾古墳というのは、高松塚古墳やキトラ古墳のことでしょうか??
管理人のみ閲覧できます
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bunyan こんばんは♪
訪問&コメントありがとうございました。
私はランキングは気にならないけど、拍手の数は気になります(*^_^*)
歴史講座が近づいてきましたね。
準備に大変でしょうが頑張ってください。
こみー 古墳は最後は権威の象徴では無くなってたんですか・・・
それにしても、大きさに制限があったなんて・・・驚きです(^_^;)
さすらい様
黒田裕樹 古墳に限ったことではないですが、いつのまにか当初の意志とは全く異なる方向へ物事が進むことがありますよね。
そうなった場合、大抵は当初の役割を終えてしまうものなんです。古墳も例外ではなかった、ということですね。
今回も有難うございます♪
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 > この狭い国土で、古墳が作り続けられたら、お墓で埋まってしまいますから、終焉してくれたよかったです(笑)
その発想はなかったです(笑)。こちらこそ勉強になりました(^^♪
> 壁画については、世界中でそうですが、紙のない時代に、なんであんなに上手に、同じような絵が描けたのかが不思議です。
確かにそうですよね。紙がない分、趣味の少ない時代ですから、平らな場所であればどこにでも書いているうちに上達したのでしょうか?
ヒロキ様
黒田裕樹 葬送儀礼の変化は、副葬品の違いで分かる訳です。故人の思い出の品を棺に入れる習慣は、現代でも同じですよね。
高松塚古墳もキトラ古墳も壁画で有名ですから、仲間に入りますね。壁画はカビやすいから保存が大変ですよね…。
bunyan様
黒田裕樹 拍手も大切ですよね。私も忘れないように押さないと…。
歴史講座ですが、実は…。明日には結論を出しますね。