竪穴式石室が遺体を埋葬して古墳に封じ込める意味があったのに対して、横穴式石室は、遺体を安置する玄室(げんしつ)が羨道(せんどう)によって外部につながっており、いつでも追葬(ついそう)できる仕組みになっていました。
これは、竪穴式石室がひとりの人間を埋葬するための墓の性格をもっていたのに対して、横穴式石室は、後から亡くなった者をあわせて葬(ほうむ)ることができるという、家族墓(かぞくぼ)的な性格をもっていたことをあらわしています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
いつでも追葬できる仕組みですか。
色々と考えられたものなのですね。
今日も勉強になりました。
応援♪
オバrev 市内にある、県内最大の前方後円墳(・・・412年頃築造 全長92m 汗)は、竪穴式石室になってました。
公園中央に前方後円墳があり、登ってみると、ガラスで仕切って内部が見えるようにして石室があります。
上からのぞいて中を見るようになってましたので、多分竪穴式だったと思います。
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます!
竪穴が横穴に変わったのは、単なるスタイルの変更ではなかったんですよね。
「一人のための墓」が「家族の墓」に変わるという大転換が、様式の変化を生み出したのかもしれません。
えめる 追葬。
現代の形式の始まりのようなものですか?
代々の墓という意識なんですね。
オバrev様
黒田裕樹 中が見える古墳ですか…。その方が色々と勉強になりますよね。
上から眺めるのであれば、ほぼ間違いなく竪穴でしょう。棺の上に土をかぶせてフタをすることにより、その人だけの墓が完成する仕組みですね。
えめる様
黒田裕樹 仰るとおりです。
横穴という形式が、古墳の意味を大きく変えました。
明日には「代々の墓」につながる様々な特徴を紹介できると思いますので、お楽しみに!
ぴーち こんばんは!
竪穴式と横穴式。。
名前だけは存じておりましたが、
その正しい意味は今まで疑問にすら
感じませんでした(^^A
いやいや、本当に目から鱗・・・です。
本当に勉強になりました★
それと私の拙いブログをリンクしていただけるんですか?
とても、光栄に存じます^^
私もリンクさせてください!!
これからも、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
それでは、応援させてくださいね^^
ぴーち様
黒田裕樹 日本史に限った話ではないですが、言葉だけ教えられても、本当の意味が理解できなければ「知ってるつもり」で終わってしまいがちなんですよね。
受験対策としては(余計なことを覚えないようにするためにも)それでOKなのかもしれませんが、私としては一生の教養として身につけてほしい科目ですから、今後もできるだけ詳しく説明させていただくつもりです。
> それと私の拙いブログをリンクしていただけるんですか?
> とても、光栄に存じます^^
> 私もリンクさせてください!!
> これからも、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
いえいえ、こちらこそ宜しくお願い致します。
ジャンルの違うもの同士、お互いに勉強できる環境を維持できればと願っております!
ヒロキ なるほど!!横穴式石室になると追葬できるようになるんですね!!
現在のように「~家の墓」みたいな感じなんですかね(^o^)
ヒロキ様
黒田裕樹 そのとおりです。現代の墓の形式のルーツは、すでに6世紀から存在していたんです。我が国の歴史の長さを改めて感じさせてくれますよね!
従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が、山の中腹(ちゅうふく)や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。
群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に伸びることにより、当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。
かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしたのです。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
古墳の発展もやはり文化だったんですね。
我々後世の人間も
それで当時の時代背景がわかるのですから
古墳は貴重ですよね。
応援♪
ヒロキ この頃に、蘇我馬子や筑紫国造磐井の古墳が出てくるんですよね(*^_^*)
農民も古墳を作れるようになるって大きな進歩ですね!!
こみー 群集墳は初耳ですね。
歴史的な物が全くダメな人間の意見ですが、
たくさん古墳が出来ると言うことは、作る方にも
かなりの負担がかかったんじゃないですか?
ひとつ作るのも大変そうですし・・・
bunyan こんばんは~
確かに6世紀になると古墳も変化してきていますね。
地方の大豪族も姿を消して、それまでの前方後円墳から円墳に変化しています。
大和朝廷の力が突出した証でしょうね。
さすらい様
黒田裕樹 古墳の調査によって、当時の人々の暮らしや文化などの様々なことが分かりますから、仰るとおり貴重な文化遺産だと思います。
明日以降は古墳時代後期の文化を具体的に考察しますので、是非ご覧下さい!
ヒロキ様
黒田裕樹 はい、その当時の古墳の話です(^^♪
農民でも古墳をつくれるということは、どんな意味があるのでしょうか?
…明日以降の講座で詳しく分析します。
こみー様
黒田裕樹 群集墳は主に高校の教科書で出てきますから、これから学習することになると思いますよ。
仰るとおり、古墳をつくる作業は大変です。だからこそ、「逆転の発想」も出てくるんですよ。
一つ作るのが大変だとすれば、何度もつくりたくはないですよね。だとすれば、何か良いアイディアはないでしょうか?
詳しくは明日の講座で解説します。
bunyan様
黒田裕樹 本文にも書きましたが、6世紀になると、前方後円墳は畿内でしか見られなくなります。
ということは、仰るとおり大和朝廷の勢力が強くなったから、他の勢力が「遠慮」してつくらなくなった、という間接的な証拠になりますね。
それともうひとつの理由は、一般の有力者も円墳をつくるようになったことで、古墳の存在意義が激変したことにあるのです。
詳しくは明日書きますね。
ぴーち こんばんは!
私も少し前に、地元の古墳を取材させていただいた記事をUPしたのですが、
古墳の大きさや、形(前方後円墳)などの種類によっても、その人の位や財力が容易に知れるものなのでしょうか・・?初歩的な質問で恐縮です^^;
それでは、また、お邪魔します^^
朝、応援は済みです!
ぴーち様
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^^♪
ご質問の件ですが、大きさや形でもかなり分かりますし、古墳の内部や副葬品でも結構詳しく分かりますよ。
例えば、副葬品に銅鏡などの祭祀に関するものが多ければ古墳時代の前期で、武具や馬具などが多ければ中期だと見当がつきます。
では後期の主な副葬品は何でしょうか?
明日の更新をお楽しみに!
また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか、儒教(じゅきょう)を伝えました。さらに6世紀半ばには仏教(ぶっきょう)も百済から伝えられるなど、我が国の思想や倫理、道徳といった精神的な面でも大きな影響をもたらしました。
当時の我が国は、文化の面では確かに大陸や朝鮮半島に一歩先を譲っていましたが、そんな遅れを取り戻すかのように彼らの文化を積極的に受け入れようという姿勢が目立ちました。こういった先人の努力が、やがて時が経つと我が国独自の文化が花開く原動力になったのは間違いないでしょう。
尚、仏教が我が国に公式に伝来した年については、538年とする説と、552年とする説があります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
もう既にこの頃から、日本人気質というべき、
勤勉さや、真面目さというのがあった訳ですね。
こういう祖先様が居たお陰で、
こんな国土も小さく資源も乏しい国が、先進国として
堂々としていられるんですね^^
応援させてくださいね!
またお邪魔します♪
海豚 無事(たぶん)に帰ってまいりましたっ。
コメありがとうございました♪
下の記事についてですが、
ついにワカタケルさん(笑)が出てきましたねぇ。
さすらい こんばんは。
聖徳太子の頃ですよね?
これからお話されるかもしれませんが
十七条憲法で史記に触れる部分がありますよね。
その史記に医学、易学、暦学、気学が含まれていて
それをどう解釈したかは謎のままです。
果たして当時の担当者が理解したかどうか(笑)
ピラミッドの謎を解明するのと同じで
我々の間でもそれはぼやけてますがね。
まあ、いつ医学が伝来したかは
それほど重要ではありませんし。
実際に使える医学になったのは
ずっとずっと後のことですよね。
いえ、インフルエンザで
これだけ騒いでいる現代ですら医学のことなんて
わかってないのかもしれません(笑)
応援♪
智里 どうして仏教がこれだけ広がったんでしょうね?
それまで日本人は神道を守ってきてたのに・・・。
やはり大陸に文化に染まったのでしょうか?
それとも聖徳太子の力が強かったのかな?
ま、いまではすっかり共存した存在ですけどね。
bunyan こんばんは~
我が国独自の文化の礎になったことは間違いないと思います。
ただ遣唐使がなくなってからが本当の我が国独自の文化が花開き始めたのじゃないでしょうか。
朝鮮半島からの影響だけでなく、隋や唐の影響をかなり受けたと思うのですけど、違いますかしら?
ヒロキ 仏教伝来以前にも、司馬達等という人が私的に信仰していましたね!
でもこのときの仏教は政治方面に利用されてしまうんですよねー(>_<)
こんばんは
ことぶきのこめや 漢字を受け入れ、平仮名を発明して、独自の文化を作り上げた日本人は本当にすごいですよね!
音読みと訓読みなど、先人達の英明さには、本当に頭が下がります!
ぴーち様
黒田裕樹 自国の文化が他国より遅れていると分かると、素直に教わって少しでも追いつこうとする努力は我が国のお家芸であり、古代からのDNAなんですね。
そんな先人のたゆまぬ努力の延長線上に我々がいるんだということを常に自覚したいものです。
海豚様
黒田裕樹 お帰りなさい!\(^o^)/
楽しかったですか?
仰るとおり、雄略天皇こと「ワカタケルさん」が登場しましたよ(笑)。
初めて聞くと、結構インパクトのある名前ですよね。
これからも歴史上の人物が次々と出てきますのでお楽しみに!
さすらい様
黒田裕樹 聖徳太子は6世紀末から7世紀にかけて活躍しますのでもう少し前になりますが、仰るとおり医学は奥が深いですよね。
我々が知らないことはまだまだたくさんあるからこそ、学問もまた成り立つと思います。
応援有難うございます。
例えば、大陸の進んだ土木技術はそれまで不可能だった大規模な治水(ちすい)や灌漑(かんがい)事業を可能にし、優れた鉄製農具をつくることができる技術は、農業の生産性を大いに高めるなど、帰化人が我が国の産業や文化の発展に果たした役割は大きいものがあったのです。
また、漢字(かんじ)を我が国に伝えたのも帰化人でした。我が国にはそれまで文字の習慣がなかったのですが、漢字を使用して朝廷の様々な記録などを残すようになりました。
以前に書いた稲荷山古墳(いなりやまこふん)などから出土(しゅつど)した鉄剣(てっけん)にも、漢字の音(おん)を利用して人名(「獲加多支鹵大王=わかたけるのおおきみ」など)や地名などが刻(きざ)まれています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!いつもありがとうございます^^
古墳時代に中国の文化が我が国に
渡って来たんですね!
現代では、日本人が途上国へ出向いて
井戸掘りの技術(上総掘り?)などを伝承している
ように、やはり技術が進んでいる国から、途上の国へ
技術が伝承されていき、それが生活を豊にしていくことは、喜ばしい事ですね!
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します★
仏教伝来
オバrev 漢字は、5世紀前半に帰化人によって伝えられたんですね。なるほど~。
でも、仏教伝来は538年まで間が空きますが、一緒に伝わらなかったのがちょっと不思議です(・A・)?
さすらい こんにちは。
色々な文化を勉強するのはいい事ですよね。
ご先祖様たちも寡黙に勉強なさってくれたので
私たちの今があるので良かったです(笑)
応援♪
bunyan 黒田さんこんばんは~
昨日夜中に帰ってきました。
また、今日からはじめますね♪
黒田さんもがんばってくださいね。
智里 てっきり漢字は、仏教伝来の時に伝わったものかと思ってました。
欽明天皇が経典を受けて、漢字の文化が皇族、貴族から始まったと思ってたんですが、その前から伝わっていたんですね。
歴史って奥が深いな~(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
ヒロキ 帰化人たちが品部として様々な技術が伝えられていくんですね(*^_^*)
この頃の帰化人のおかげで国が発展していくなんて嬉しいですね!!
ぴーち様
黒田裕樹 そうですね。
技術を持っている国が、持っていない国を助けるのも、また持っていない国が進んで教えを請うのも立派な外交だと思います。
その行為が結果として国を豊かにして、国民のためになるのならば尚更ですね!
オバrev様
黒田裕樹 漢字の伝来は、文字を持たなかった当時の我が国では画期的なことでした。また仏教については、国家レベルで伝えられたのは6世紀ですが、それ以前に帰化人の間で私的に崇拝されていた可能性もあります。
この点については、明日の講座でも取り上げる予定です。
さすらい様
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の先祖が黙々と異文化を勉強してくださったからこそ、現代の我々があるのだと思います。我々も同じように努力して、後世にバトンタッチしたいものですね。
bunyan様
黒田裕樹 お帰りなさいませ!
ご旅行はいかがでしたか?
これからもお互いに頑張りましょう!(^o^)丿
なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)したそれぞれの鉄剣(てっけん)に、「獲加多支鹵大王」(わかたけるのおおきみ)と刻(きざ)まれていたからです。
雄略天皇の別名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、「幼武」(わかたける)の部分が一致するので間違いないと考えられています。
ところで、倭の五王が中国の南朝に使者を送ったのは事実ですが、それはあくまでも当時は大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が、中国皇帝の権威に屈してその臣下(しんか)となるという、いわゆる朝貢関係(ちょうこうかんけい)が前提でした。
この屈辱(くつじょく)ともいえる関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。




いつも有難うございます。
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オバrev おぉ、いよいよ聖徳太子の出番ですね。
「日いずるところの天子、書を没するところの天子に致す。つつがなきや」
多分これじゃないですか?
ヒロキ 雄略天皇の別名って大泊瀬幼武尊なんですね!!
獲加多支鹵大王は知っていましたが・・・。
昔の人って様々な名前を持っていますよね!
ケンシロウ こんにちは。
講座まであと2週間ですね。
準備等大変でしょうが頑張って下さい。
オバrev様
黒田裕樹 聖徳太子の出番が近いのは間違いないのですが、残念ながら明日からはしばらく別の話になります…。
恐れ入りますが来月あたりまでご辛抱下さいm(_ _)m
ヒロキ様
黒田裕樹 「雄略天皇」という名前は、奈良時代に送られた「漢風諡号」(かんふうしごう)です。それまでは和名である「大泊瀬幼武尊」と呼ばれていました。古代の天皇にはこのように「和風」と「漢風」の呼び名がありますが、本講座では原則として「漢風」に統一しています。
ちなみに「獲加多支鹵大王」は、当時の天皇が大王(おおきみ)と呼ばれており、それと雄略天皇の和名の一部である「わかたける」とをあわせて「わかたけるのおおきみ」と呼んでいたのを、漢字の音に当てはめたものと考えられています。
この件については、後日もう一度講座の中で説明する予定です。
ケンシロウ様
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
講座の内容はもちろんですが、インフルエンザの影響で開催そのものが出来るかどうか微妙になってきたのが心配です。
あと2週間あるので大丈夫だとは思いますが…。
『宋書』倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉(せい)に使者を遣(つか)わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権(ぐんじしきけん)を認めてもらおうとしています。
つまり、我が国には中国皇帝の権威によって、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があった、ということです。
ところで、倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるか、ということに関しては様々な説がありますが、少なくとも済は第19代の允恭天皇(いんぎょうてんのう)、興は第20代の安康天皇(あんこうてんのう)、武は第21代の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だと考えられています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
なるほど、利用できるものは
何でも使いたいものですよね。
深い話です。
応援♪
宋
オバrev このころの南朝は主に宋が支配していたということでしょうか。
広島には平清盛ゆかりの厳島神社がありますが、清盛が日宋貿易をしたときの宋とは無関係なんですかね?
さすらい様
黒田裕樹 我が国は自国の立場を有利にするために南朝に接近しましたが、南朝もまた、対立する北朝へのアピールとして我が国との外交を利用したとも考えられます。
まさに「利用できるものは何でも利用する」ですね。
オバrev様
黒田裕樹 南北朝時代の「宋」は、実は10世紀に成立した「宋」とは全く系統が異なります。
中国ではしばしばこのような状態が起きています(例えば、南北朝時代の北朝は「魏」ですが、これも三国時代の「魏」とは別系統です)。ややこしいですね。
ケンシロウ こんにちは。
恥ずかしいですが今日の内容は
知らないことばかりです。
ただ思ったのは中国の力を借りず
朝鮮を支配しとけよってこと。
質問です!!
ヒロキ 倭国が、
「中国皇帝に力を借りて朝鮮における政治的立場を有利にしようとした」っていうのは、前の話で出てきた倭国が高麗句に敗北した事が背景にあるのでしょうか?
ケンシロウ様
黒田裕樹 そうですね。仰ることはごもっともですが、いくら当時が南北朝時代で、中国が朝鮮半島に積極的にかかわれない時代といえども、陸続きである半島にはいつ攻め寄せてくるか分かりません。
それだけに「我が国の朝鮮半島へのかかわりを認めて下さい」と下手(したて)に出ることによって中国のご機嫌をとって(?)、後顧の憂いを断つということも意識した外交ではないかとも思えるのです。
いつもコメントを有難うございます!
ヒロキ様
黒田裕樹 高句麗を倒せなかったことで、朝鮮半島内では高句麗・百済・新羅の三国と我が国とかかわりが深い任那地方に分かれることになりましたから、任那を守るためにもあらゆる外交努力を惜しまなかったという側面も、背景としては十分考えられると思います。
ぴーち おはようございます!
何時の時代も、国同士の政治的駆け引きは
盛んに行われていたんですね!
先日、プーチンさんの訪日がありましたが、
北海道知事が、北方四島返還についての
意見を求めた際に、プーチンさんは無表情で
その質問に対する言及を一切しなかった事が
印象的で、ふと今、頭を過りました。
まだまだ、解決の糸口は見えないなと感じました。
と、後半、記事とは関係ないコメントで
失礼いたしましたm(__)m
それでは、応援させてくださいね!
ぴーち様
黒田裕樹 国同士の外交問題は、サジ加減ひとつで国家の命運が決まってしまいますから、まさに命がけです。
この当時は国同士で激しく勢力争いをしていましたから、現代とは比べものにならないくらい厳しい駆け引きがあっただろうと推測されますね。
プーチン氏の対応は我が国の立場からみれば噴飯ものですが、ロシアの立場からすれば「余計なことを言わない」原則を守っただけでしょう。領土関係はそれだけ深刻かつ重要な問題なんですね。
第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が崩御(ほうぎょ)された後、妃(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が、身ごもっておられるにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済、高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。そして5世紀に入ると、ようやく中国の歴史書から我が国に関する記載が復活します。
尚、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の第15代の応神天皇(おうじんてんのう)であり、応神天皇の子が第16代の仁徳天皇(にんとくてんのう)です。大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、この当時に世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
懐妊しながらも出兵ですか。
凄い!
気合い入ってましたね。
勉強になりました。
応援♪
ケンシロウ こんにちは。
身重でありながら新羅・百済・高句麗を
降伏させなければならなかったのだろうか?
このタイミングしかなかったってことだろうな。
こんばんは
ことぶきのこめや ちょっと質問ですが、黒田先生は、大仙古墳は仁徳天皇の陵だとお考えですか?
それとも、仁徳天皇の時代に世界最大級の前方後円墳を作ることができたくらい、朝廷に力があったという意味ですか?
さすらい様
黒田裕樹 神功皇后の伝説は、女性も天皇たる夫が急死し、自らは妊娠中というハンデをものともせずに戦ったという、男女の性差のない世界を見事に表現していると考えられますね。
確かに物凄い気合ですね(^^ゞ
ケンシロウ様
黒田裕樹 日本書紀によれば、神功皇后が朝鮮半島に進撃された際には大荒れの天気で、逆にそれが幸いして常識破りの短い時間で半島に上陸できたそうです。
この伝説が、ちょうど良いタイミングで朝廷が半島へ攻め込んだことを間接的に証明していると思われますね。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 学術的には否定説が有力視されつつありますが、私としては仁徳天皇陵という伝説には信憑性が高いと判断しております。
なぜなら、この時期は朝鮮半島へ攻め込むことができるくらい朝廷の力が強かったので、巨大な天皇陵をつくることができるだけの経済力があったと思われることと、以前に書いたように、仁徳天皇の仁愛に基づく伝説が、民衆をして進んで天皇陵を造営せしめたと考えられるからです。
ぴーち おはようございます!
神功皇后はお腹に子供が居たからこそ
大胆な行動が出来たのではないかしら・・。
既にお腹の中に一人、味方を付けて
居る訳ですしね^^
女性は身ごもると、途端に趣向や性格が
一時的に変わる人もいますがね!
凸
ヒロキ 神功皇后の伝説すごいですね(*^_^*)
確か150年間くらい中国史書から倭国の話が無いんですよね(>_<)
いったい何があったのか、ものすごく気になりますね!!
ぴーち様
黒田裕樹 なるほど、身ごもった女性は一時的に趣向や性格が変わることもあるんですか。その視点からだと、神功皇后の伝説にもうなづける要素が増えますね。
男性にはなかなか気づけない見方をご指摘下さって有難うございます!
ヒロキ様
黒田裕樹 仰ることはごもっともですが、実は「いったい何があったのか」は、今回の伝説のように、ちゃんと「古事記」や「日本書紀」に記録されているんですよ。
神功皇后の伝説は、ご指摘の「150年間くらい中国史書から我が国の話がない」時期の出来事です。
それだけに、皇后の伝説を「でっち上げ」だとする乱暴な学説が存在するのもまた事実なのです(´・ω・`)
外国の史書は信頼するのに、なぜ我が国の史書が軽視されるんでしょうか…。
皆さんは、他人と争って負けたらどう思いますか?
悔しいですよね。負けた原因が、自分が持っていない道具や技術の差だと分かったらどうしますか?
自分も身に付けようとは思いませんか?
大和朝廷も当然騎馬技術を積極的に学ぼうとしました。実は、この当時から戦乱を逃れるために海外(主に朝鮮半島)から数多くの帰化人(きかじん)が海を渡って我が国にやって来ており、彼らから様々な技術や文化を学んだのです。
ところで、以前にこの講座で古墳時代の中期の副葬品には武具や馬具が多くなる、と書いているのを覚えていますか?
その理由として、当時の被葬者(ひそうしゃ)に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられるのも事実ですが、もうひとつの原因として、「高句麗に勝てなかった悔しさからの出発」という側面もあるのです。
※教科書によっては、帰化人のことを渡来人(とらいじん)と書いているのもありますが、この講座では上記の呼称(こしょう)で統一します。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
なるほど、日本の騎馬軍団の始まりですか。
向こうは騎馬民族ですからその技術は凄いんでしょう。
内モンゴルに旅行した時、草原で乗馬しました。
ご存知かもしれませんが
2時間1500円くらいで広大な草原を好きに乗れ
日本とは全然違う容易さを堪能しました。
当たり前にある馬の生活を肌で感じましたよ。
歴史や文化の違いですね。
では応援♪
こんにちは
ことぶきのこめや なるほど~。
ここで古墳の副葬品につながるわけですね!
馬というのは、ある意味時代を動かす生き物ですね。
すっきりしました!
さすらい様
黒田裕樹 そうなんですよね。
時速数十?で走る騎馬軍団には、人海戦術もかないません。
でも、負けた悔しさもあって、歴史や文化の差を少しでも縮めようと乗馬技術を身につけようとした先人の努力も素晴らしいと思います。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 すっきりして下さって何よりです。
私の講座では口癖のようになってしまいましたが(笑)、「歴史はつながっている」からこその結論なんですよね。
騎馬技術が、文字どおり我が国の発展への大きな原動力になったんです。
ぴーち こんばんは!
なるほど、「騎馬軍団」の所有の有無だったのですね^^
確かに、古墳時代の埴輪の中には、馬の形のものが出土したということは、何となく学んだ記憶があります。
現在でも日本の馬に対する研究は、世界的にみて
遅れをとっているように思いますが・・どうでしょうね^^
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します!
ヒロキ キャーーーーーーーーー\(^o^)/
やはり馬が勝敗を左右していたんですね(*^_^*)
なるほど、帰化人が騎馬技術を伝えていたんですね!
大和朝廷側が招いたいたのかと思ってました^^;
ぴーち様
黒田裕樹 そうなんです。古墳時代中期には馬の形をした埴輪が多く出土していますが、今回の件がからんでいるのは間違いありません。
我が国の場合、急激な近代化もあって、古来からの「とねっこ」よりも、早く走ることができるサラブレッドをどんどん進化させましたから、何らかの影響が出ているかもしれませんね。
また是非お越し下さいね(^^♪
ヒロキ様
黒田裕樹 はい、正解です!\(^o^)/
馬が我が国に大きな試練を与えたんですね。そんな我が国の凄いところは、海外からの帰化人を大切に保護して「敵から学ぶ」姿勢を持っていたことでしょうね。
bunyan こんばんは~
馬といえば日本の古来からの馬は小型ですよね。
高句麗には大型の馬が生息していたんでしょうか?
もし大型だったら、たとえ日本が騎馬軍団を持っていたとしても太刀打ちできなかったかも。
最近、戦国時代に武田騎馬軍団はなかったという研究結果もあるそうなんだけど、日本の馬が大型化したのは江戸後期だという話もありますが、本当のところはどうなんでしょう。
bunyan様
黒田裕樹 我が国の馬に関する文化が広がったと考えられるのがちょうどこの時期なんですよ。馬もそれまではいなかったか、非常に数が少なかったと考えられています。
武田氏の騎馬軍団に関しては、全員が騎馬状態ではなかったのと、当時は馬が小さかった(大型化は明治以降に西洋馬と交配されるようになってからと考えられます)ので存在が疑問視されていますが、長篠の戦いでの馬防柵の存在により、警戒の対象にはなっていたと思います。
一方、北方の高句麗(こうくり)も、半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていました。こうして、高句麗と大和朝廷とは交戦状態となりました。
現代の中国と北朝鮮との国境付近には、6mの高さを持つ、見上げるように大きな碑(ひ)が残されています。それは高句麗の好太王碑(こうたいおうひ)です。実在した高句麗の好太王の戦績を称(たた)えた碑文(ひぶん)には、4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗と大和朝廷との激しい戦闘の記録がつづられています。
高句麗と大和朝廷との戦いは一進一退(いっしんいったい)が続きましたが、結局大和朝廷は高句麗を滅ぼすことができませんでした。高句麗を倒せなかった一番の原因は、高句麗にはあって、大和朝廷にはないものがあったからです。
それは何だと思いますか?
※教科書によっては、任那のことを加羅(から)、あるいは加耶(かや)と書いているのもあり、同様に好太王のことを広開土王(こうかいどおう)と書いているのもありますが、この講座では上記の呼称(こしょう)で統一します。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 高校ではただ単に大和朝廷が負けたっていったナ^^;
朝鮮半島で戦争していたから、大和朝廷は海を渡っていたわけですね。。
・・・ということは、
前回のお話にも書かせていただいた「馬」を用いていたか否かですかね??
管理人のみ閲覧できます
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ヒロキ様
黒田裕樹 教科書にはただ単に結果しか書かれていない場合が多いですからね。実際にはかなりの接戦だったんですよ。それこそ「高句麗にあって大和朝廷にないもの」がなかったら、大和朝廷が勝っていたかもしれません。
それは何か?
ヒロキ様のお考えが当たっているかどうか、明日の更新をお楽しみに!
こんばんは!
ことぶきのこめや 高句麗にあって、朝廷にないもの。。なんでしょう?
これまでにないない視点で書かれていて、非常に興味深いです!
さすらい こんばんは。
6mの高さの高句麗好太王碑!?
素晴らしい!
見てみたいです。
北朝鮮が管理しているんですか?
もう少し注目してもらいたいですね。
応援♪
栗原、やりましたね!
ぴーち こんばんは!
今日も何やら、出題形式の記事ですね^^
何でしょう・・・?
冒頭の鉄資源や先進技術に
関係することでしょうかね?
明日がまた、楽しみです^^
それでは、応援させてください!
大相撲も、近頃は色々と叩かれていますが、
取組自体は、大変見ていて面白いですよね!
アメフトよりも、あのぶつかったときの衝撃が
強いらしいですものね。迫力あります^^
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 歴史の普通の教科書や参考書は「答えが書いてある問題集」のようなものですから、単純な暗記でしかないんですよね。
私の講座では、ご覧になる皆様が少しでも歴史に興味を持って下さるように書いているつもりですので、ことぶきのこめや様のお言葉は本当に励みになります。
有難うございます!\(^o^)/
さすらい様
黒田裕樹 好太王碑はギリギリで中国領にあるんですよ。
ですから中国が管理しています。石碑なので、風化を防ぐために大きな屋根が取り付けられていますよ。
火曜日は散々な目にあいましたから、昨日くらいはお返しさせていただかないと…。いずれにせよホッとしました(^o^)丿
いつも応援、有難うございます。
ぴーち様
黒田裕樹 私のブログでは、出題形式の記事が結構ありますよ(笑)。
皆様に少しでも歴史に興味をお持ちいただくための工夫でもあります。
ぴーち様のブログにも書かせていただきましたが、実は私は大の相撲ファンでもあります(笑)。
真剣勝負の取組は、見ているとやはり迫力が違いますね。
次回以降もお待ちしております!
戦略の差
オバrev 歴史的結果には原因があり過程があります。
そこまで分かれば歴史って面白いですよね。
高句麗との差ですか。
南北朝時代を生き抜いた経験の差で、戦略的に高句麗の方が上だった?・・・そう、まるで今の日本と同じかも。個々の技術はすばらしいのに、国家的な戦略ができてない・・・カープも同じかorz
大陸の混乱状態によって、周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現在の中国東北部からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年に中国の植民地であった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。
一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
こうして、朝鮮半島には北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅の三国が成立したのです。尚、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続きました。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
現在の中国本土でもヨーロッパのように
国がたくさんできていても
おかしくなかったですよね。
複数の民族と地域がありますが
ヨーロッパのようにならなかった歴史は
この頃からそんな土壌が
繰り返されてきたからでしょうかね。
仰るように日本が島国でなかったら。。。
と思うと、やはり歴史は面白いですね。
今日もありがとうございます。
応援♪
歴史の流れ
オバrev なるほど~、中国が南北朝時代になって朝鮮半島が手薄になったところで、高句麗、百済、新羅の三国成立になるんですね。
となるとこのころの朝鮮の資料に日本のことが書かれているわけですね。
日本と朝鮮半島は結構交流がありましたからね。
歴史はお互いに影響し合って、流れができていくんですね。
中国はこの後、隋が統一していくんでしたっけ?
えめる なんだか懐かしいですね。
百済、新羅とか、とりあえず名前だけは覚えています。
名前だけニャ。
あの頃はよかった……(遠い日を思い出しています)
ヒロキ この頃の朝鮮半島ってけっこう複雑ですよね^^;
弁韓って、伽耶ことでしたっけ??
ケンシロウ こんにちは。
今の日本が好きなおいらは
やはり島国で良かったと考えさせられます。
↑2回目の講義が決まったようですね。
頑張って下さいね。
報道ギャング ちょうど、歴史の授業で勉強してるところです
テストも近いんでそろそろ復習でも始めようかなー、とか思ったりw
漢字の読み方が独特で手こずってますw
ぴーち こんばんは!
高句麗、百済、新羅・・・
そういえば、息子の勉強を馬鹿みたいに
お付き合いしている時に、
私の方が、勉強に夢中になり、中学程度の歴史
ですが、息子よりも、私の方が得意になって
しまった事がありましたっけ^^;
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します。
さすらい様
黒田裕樹 中国史の話になってしまいますが、紀元前221年に秦の始皇帝が大陸を統一しなければ、中国大陸は今のヨーロッパみたいに異なる言語や文字、文化を持ついくつかの国に分裂したままであっただろうといわれています。
もしそうなら朝鮮半島ももっと早くに独立できていたでしょうし、島国である我が国もどのような影響を受けていたのか…考えると興味が尽きませんね。
応援有難うございます♪
オバrev様
黒田裕樹 はい、朝鮮半島のある「文面」に我が国に関することが書かれています。
明日あたりには登場すると思いますよ(^^ゞ
歴史は一国だけがつくるものではありませんからね。人間が一人で生きていけないようなものでしょうか。
隋の統一はまだまだ先の話です。ここでは当分の間、南北朝時代が続きますよ。