また八木氏によれば、女王卑弥呼(ひみこ)の晩年に邪馬台国と争った「狗奴国」(くなこく)の男王である「卑弥弓呼」(ひみくこ)ですが、「狗奴国」は「くまのこく」、つまり「熊野国」で神武天皇が上陸した場所をあらわし、「卑弥弓呼」は神武天皇など初期の天皇の別名の一部である「彦尊」(ひこのみこと)か、あるいは神武天皇の出身地の日向(ひゅうが)から「日向彦(ひむかひこ)」がなまって伝えられたものと考えられるとのことです。
ところで、初代の神武天皇から第8代の孝元天皇(こうげんてんのう)までは、宮殿は奈良盆地の南部、つまり南大和に設置されていたのですが、第9代の開化天皇(かいかてんのう)の時代になると、現在の奈良市春日(かすが)の地、つまり北大和に移しているのです。
さらに、歴代の天皇は正妃(せいひ)、つまり妻をめとっているのですが、正妃の出身地も、それまではほとんどが南大和の出身だったのですが、孝元天皇の代になると北大和から正妃を迎えたほか、北河内(現在の大阪府北東部)出身の女性を側室(そくしつ=二番目以後の妻女のこと)としています。
八木氏は、これらの状況証拠(じょうきょうしょうこ)から一つの結論が浮かび上がってくるとしています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev なるほど、181年とすると辻褄があうわけですね。
日本書紀に紀元前660年と記載されていたのは、天皇を神格化するためかもしれませんね。
これらの状況から浮かんでくる一つの結論・・・それは開化天皇は結構好き者だった(^^;)
さすらい こんばんは。
現代の日本の倫理では
全く受け付けないものですが
正室の他に側室があるというのは
当たり前の良き(?笑)時代だったんですね。
日本だけではなく
世界がそうでしたから
いかに「男」がイケナイ動物か
なのでしょうね(笑)
応援♪
コメント有難うございます!
黒田裕樹 オバrev様
頭から否定するよりも、辻褄を合わせる方法を考えたほうがよっぽど現実的だと思いますよね。
当時は紀元前660年が縄文時代なんて分かるはずがありませんし、神格化の為にも確かに昔に設定したかもしれません。
好き者ですか(笑)。天皇個人は確かにそうかもしれませんが、結論については明日の講座をお楽しみに!
さすらい様
仰るとおり、当時の世界では征服した領地の女性を側室にするのが常識であり、我が国もその例にならったと思われます。
当時の倫理観と現代の倫理観とは全く異なりますので、その点を注意して歴史を学ぶ必要があるでしょうね。
♪もふ♪ こんばんは^^
久しぶりにコメントさせてもらいます~!!
もうこの時代から側室などの制度があったのですね。
もっと後の時代からなのかと思っていました。
応援していきますね~(^o^)丿
♪もふ♪様
黒田裕樹 ♪もふ♪様のブログではいつも「美味しい」思いをさせていただき、感謝しております!
他の方へのコメントにも書かせていただきましたが、側室制度は結構古くからあるんですよ。
女性の皆様にはあまり気分のいいものではないかもしれませんが、当時の風習は現代とは全く異なりますので、ご理解いただいたうえで、またご訪問下さればと思っております。
応援有難うございます!
店長 黒田さん こんばんは。
店長と申します。
続きが気になりますぅ。
また 明日、おじゃまします。
ではでは
ほんとびっくり!
清家淳子 このころからほんと側室ってあるんですね(-_-メ)
女からすると気持ちのいいもんじゃないですけど(笑)
誰が一体決めたんでしょうね、側室制度。
女の人は反対しなかったんでしょうか?
コメント有難うございます!
黒田裕樹 店長様
お越し下さいまして有難うございます。本日(28日)の正午頃には「結論」を発表(?)しますので、今しばらくお待ち下さい。
清家淳子様
仰るとおり、女性の方にはあまり気分が良いものではないかもしれませんが、征服された(または降参した)地域の女性を側室に迎えることは、その女性の血を引く支配者が誕生する可能性がある、ということで、地元の人々の心を溶かす意味もあったと考えられています。
現代とは全く考えが異なりますので、何度か書かせていただいておりますが、今の歴史観や倫理観で当時を見ないようにしなければなりません。