奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)からは、奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)と刻(きざ)まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
こうして、弥生中期以後に北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れて、自らの地位を高めようとしたと考えられています。




いつも有難うございます。
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オバrev 出ましたね、志賀島の金印。
きっちり、後漢書に書いてあるんですね。
確か福岡博物館に展示してあるらしいので、息子のところへ行ったときに見に行こうと思います。
オバrev様
黒田裕樹 金印が見つかったことは歴史上の奇跡ですね。後述する卑弥呼の金印も見つかればよいのですが。
ところで、金印を見つけた農民の名前はご存知ですか?
かつて有名私大の入試に出たそうですよ。何というか、重箱の隅をつつくような問題ですよね。
海豚 コメントありがとうございました。
なんか読んでると懐かしいです。
これからも読ませてもらいます☆
よろしくです~。
海豚様
黒田裕樹 こちらこそお越し下さって有難うございます。
そうですね。中学校の歴史でもこの辺は学習しましたからね。いずれ高校でも勉強しますし、受験にも何らかの手助けになるかもしれませんから、これからも是非ご訪問下さい(^^)/
さすらい 日本と中国の交流は古いんですよね。
今も仲良くしたいものです。
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 この当時の外交は、本文でも述べたように朝貢形式でした。当時は国力に大きなへだたりがあったために止むを得なかったのですが、その後対等外交に切り替わります。
誰がそうしたのかは今後のお楽しみということで(笑)。
現代の対中外交は「対等」でしょうかねぇ…。
また是非お越し下さい♪