そう! 水稲耕作(すいとうこうさく)です!
水稲耕作は気候条件が適した西日本一帯にまもなく普及し、やがて東北地方までに及んだのですが、北海道や南西諸島までには広まりませんでした。
なぜなら、これらの地域は水稲耕作に向かない気候だったからです。そのかわりに独自の文化が広まっています。
例えば、北海道では狩猟(しゅりょう)や漁撈(ぎょろう)に基礎をおいて、サケやマスなどを採集する続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)が、南西諸島では貝類などを採集する貝塚文化(かいづかぶんか)がそれぞれ栄えました。
ところで、水稲耕作の開始によって人々の生活は食物採取から食物生産への段階へと入っていきました。すなわち、それまでは狩猟や漁撈などの自然環境に依存(いぞん)する生活から、水稲耕作が可能となったことによって、食糧を計画的に生産できる安定した経済生活へと移っていったのです。




いつも有難うございます。
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清家淳子 北海道とかでは、ずっと冷害に苦しめられてきました。
今では、品種改良されるし、地球温暖化によって、北海道の米はおいしいとまで
言われるようになりました(^◇^)
お米を作れることに感謝感謝ですね(*^。^*)
清家淳子様
黒田裕樹 いつもコメント有難うございます。
昭和初期に「農林1号」が開発されるまでは、北海道や東北、北陸では米が出来にくく、味も良くなかったんですよね。
品種改良によっていつでも美味しい米が食べられる現代の私たちは、とてつもなく幸せであるという現実を忘れないようにしたいものです。
bunyan 歴史の先生に大変失礼ですが、水稲耕作が拡大していったのは列島平野部で山間部には拡大しておらず、弥生時代は狩猟と水稲が混在していたのではないでしょうか。
素人が生意気なことを言ってすみません。
間違っていたらごめんなさい。
さすらい こんばんは。
なるほど勉強になります。
応援していきますね。
bunyan様
黒田裕樹 沖積平野で稲作が盛んになったのは、意外にも江戸時代以降のことです。
平野部は傾斜が少なく、排水しにくいので水はけが悪いうえに、河川の氾濫が多くてせっかく育ったイネが流されてしまうリスクがありました。
江戸時代になって土木技術が上昇し、利根川の付け替えなどの大規模な工事によって本格的な灌漑や治水ができてから、平野部でも米づくりが本格的にできるようになりました。
従って、江戸時代以前は台地や河岸段丘に棚田をつくるのが一般的でした。
なお、弥生時代でももちろん狩猟や漁撈を行ってますよ。近いうちに書かせていただきます。
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます。こちらも貴ブログの更新を楽しみにしております。