ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長はすぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえるエピソードですね。
さて、比叡山は焼打ちで抑えたものの、一向一揆と信長との戦いはなかなか決着がつきませんでした。総本山といえる大坂の石山本願寺が城並みの防御力を誇っていたばかりでなく、毛利氏が村上水軍を活用して海路で兵糧や武器弾薬を運び続けていたからです。
信長は石山本願寺への輸送を断つために天正4(1576)年に村上水軍と戦いましたが、相手の強力な火器によって信長軍の船は次々に炎上し、惨敗してしまいました。このままではいつまで経っても石山本願寺を落とすことができません。どうすれば村上水軍に勝てるのでしょうか。
ここでも信長は、その天才ぶりを遺憾(いかん)なく発揮するのです。
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通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳はとてつもない発想を思いつきました。
「鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈まないのではないか」。
こうして完成した鉄甲船(てっこうせん)は天正6(1578)年に村上水軍を散々に打ち破り、信長は大坂湾の制海権を握ることに成功しました。なお、最近の研究では、信長は鉄甲船を開発したのではなく、外国から南蛮船(なんばんせん)を導入して戦いに勝利したという説もあります。一方、毛利氏からの補給路を断たれた石山本願寺は徐々に追いつめられ、天正8(1580)年についに信長に降伏しました。
さて、およそ10年にわたって戦いを続け、そのために肉親や多くの家臣を失うことになった本願寺に対して、信長はどのような態度をとったと思われるでしょうか。
石山本願寺から退去し、以後は信長に逆らわないことが条件ではあったものの、何と今後の布教は自由としているのです。。
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そう言われてみれば、比叡山延暦寺を焼打ちした後でも、確かに信長は天台宗(てんだいしゅう)の禁教令を出していません。後に豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教(=カトリック)が禁教とされ、宣教師や信者たちが激しい弾圧を受けたことと比べれば対照的ですね。
ところで、信長が現代の私たちに意外な「贈り物」をしていることを皆さんはご存知でしょうか。
巨大な圧力団体と化していた宗教勢力は、信長によって徹底的に滅ぼされましたが、実はこのことがきっかけになって、以後の我が国では宗教団体が政治に積極的にかかわることがなくなりました。例えば、他国で悩まされることが多い原理主義者による自爆テロリストも、我が国では原則として起きていませんよね。
日本国憲法第20条で明確に規定されている「政教分離」は、信長がその道筋をつけてくれているという事実を私たちはもっと理解すべきではないでしょうか。
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後に同じような悩みを抱えることになった豊臣秀吉や徳川家康は、関白(かんぱく)や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで天皇あるいは朝廷の後ろ盾を利用しましたが、信長は既存の権威におもねることなく、破天荒(はてんこう、誰もが成し得なかったことをすること。「豪快で大胆な様子」という意味は、本来は間違いです)なことを思いつきました。
それは、自分自身が「神」となって人々に信仰の対象とさせることで、既存の権威を打ち破ろうとしたことです。それまでの我が国では、菅原道真(すがわらのみちざね)のように死後に神として祀(まつ)られることはあっても、生前に「自らを神として祀れ」と宣言した人物は存在しませんでした。
「信長=神」という図式は、初めてお聞きの皆様には耳を疑う話かもしれませんが、実は間接的な証拠があります。それこそが先述した安土城であり、この城は前代未聞の構造で建てられていました。
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安土城の天守閣は、他の城とは違って「天主」と呼ばれていました。これは当時のキリスト教の別名であった「天主教」にもつながり、天主に存在する信長は神の生まれ変わりであると考えることもできます。
また、信長が完成した安土城に入城するのは天正7(1579)年旧暦5月11日ですが、この日は信長の誕生日であると考えられており(12日説もあります)、誕生日を祝して入城するという姿勢は、イエス=キリスト生誕の日であるクリスマス(12月25日)を祝う習慣にもつながっています。
さらに、安土城の上層には釈迦如来(しゃかにょらい)の図が描かれていたと伝えられており、その上の「天主」に存在する信長こそが、あらゆる仏や神を超えるものとして信仰の対象にしたとも考えられているのです。
「信長が自己を神として祀るように宣言した」という間接的な証拠は、実はもう一つあります。それは徳川家康の死後の扱い方です。
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つまり、東照大権現として祀られるのは家康自身の意思によるものなのです。しかも、権現とは神の化身(けしん、仮の姿という意味)という意味ですから、まさに家康を現人神(あらひとがみ)、すなわち「生き神様」として祀っていることになります。
信長が「自分を神として祀る」ことは確かに破天荒なことでしたが、これがきっかけとなって、家康が同じように「権現様」と祀られても何の違和感もなかったことが、信長の考えが結果として人々に受けいれられた間接的な証拠とはならないでしょうか。
ところで、既存の権威を超えるために「自らが神になる」と宣言した信長でしたが、絶対的な権力を持つ為政者(いせいしゃ)が自らを神格化することは、同時に「自分が正しいと思うことは何でも正しい」という独裁的で危険な思想を持つことにもつながっていました。
そして、そんな考えの先に待っていたのが「本能寺の変」だったのです。
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しかし、妹の婿(むこ)であり、絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってからは、信長の人格が大きく変化していったと考えられるのです。例えば、浅井長政を滅ぼした後に、父の浅井久政(あざいひさまさ)や朝倉義景とともに、そのドクロを漆塗(うるしぬ)りにして金粉をまぶした薄濃(はくだみ)にして、それらを肴(さかな)に酒を飲んだ、という記録が残っています。
先述の比叡山延暦寺の焼打ちや一向一揆に対する皆殺しも、結果的には仕方がなかったとはいえ、信長の「敵に対しては容赦なく牙(きば)をむく」考えの延長線上にあったことは否定できないでしょう。
こうした信長の姿勢は、自らを神としただけでなく、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西の絶対的な権力者の誰しもが陥(おちい)りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長もはまってしまったのです。
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信長による狂気じみた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという考えを持つようになりましたが、その中のひとりに、信長によって見出され、過去に例のない出世を果たした武将がいました。
彼こそが、我が国の歴史を大きく塗り替える大事件を起こした「明智光秀」その人だったのです。
皇室など我が国古来の権威や秩序を重視していたとされる光秀にとって、自らが神となる信長の姿勢やその独善的な態度は、自分がそれまでに信長から受けてきた大きな恩を差し引いても許されるものではなく、心の中で次第に反感が高まっていました。
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しかも、光秀の家臣の義理の妹が元親に嫁いでおり、その間に跡継ぎの信親(のぶちか)が生まれていました。それなのに、嗚呼(ああ)それなのに、信長は自分のこれまでの苦労を水の泡にするのみならず、家臣の縁者を見殺しにしようとしている。
絶望した光秀の、心の中に秘めていた爆弾がついに炸裂(さくれつ)しました。秀吉の毛利攻めに協力すべく、領地の丹波(たんば、現在の京都府中部など)を出発した光秀の軍勢は、京が近づくと突然進行方向を変え、光秀が高らかに宣言しました。
「敵は本能寺にあり!」
わずかな手勢で京の本能寺に宿泊していた信長は、突然の光秀の謀反になすすべもなく、業火の中で49歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。時に天正10(1582)年旧暦6月1日から2日にかけての深夜でした。この大事件は「本能寺の変」と呼ばれ、我が国の歴史を大きく変えた出来事として知られています。
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信長には「もう一つの顔」があることを皆さんはご存知でしょうか。20年に一度の伊勢神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が、平成25(2013)年に厳(おごそ)かに行われたのは記憶に新しいですね。
式年遷宮は飛鳥時代の7世紀から原則として20年ごとに行われてきましたが、戦国時代を迎える頃には遷宮のための多額の費用と時間を捻出(ねんしゅつ)できなくなり、寛正(かんしょう)3(1462)年を最後に内宮(ないくう)の遷宮が120年以上も行われなくなってしまいました。
そんな危機を救ったのが、実は信長だったのです。天正10(1582)年旧暦1月、内宮・外宮(げくう)の両宮に対して信長が造営費用3000貫(現在の価値で約3億円程度)を寄進しました。しかも、当初は1000貫(現在の価値で約1億円程度)の寄進を依頼され、残りを民間からの寄付で賄(まかな)う予定と聞いた信長が「庶民に迷惑をかけてはいけない」と自腹を切ったというエピソードが遺(のこ)されています。
式年遷宮そのものは信長の死後の天正13(1585)年に実現しましたが、信長の心優しい配慮がなければ、恐らくは遷宮の歴史は途絶(とだ)えていたことでしょう。こうした信長の「隠れた功績」は、もっと知られても良いと思います。
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