そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑んだ人物が現れました。もちろん「織田信長」のことです。
さて、信長の出身である織田家はもともと尾張の守護大名であった斯波(しば)氏の代理人である守護代の家臣という身分でしたが、父である織田信秀(おだのぶひで)の頃には独立し、尾張の中で大きな勢力を持つようになりました。
信秀の急死後に若くして家督(かとく)を継いだ信長は身内を含めた争いに勝ち抜き、永禄2(1559)年には尾張一国を統一するまでに成長しましたが、そんな彼に大きな試練が不気味な足音とともに東の方角からやって来ました。
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家臣からは籠城(ろうじょう)を勧める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣し、熱田(あつた)神宮で戦勝祈願を行いました。
実は、信長は家臣からもたらされる「ある情報」を待っていたのです。そして、その情報こそが、圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一の手段でもありました。
やがて、信長に待望の「情報」がもたらされました。義元が窪地(くぼち)で身動きの取りにくい桶狭間(おけはざま)を行軍中だというのです。これを好機と見た信長は、ほぼ全軍を桶狭間に向かって突撃させました。折からの豪雨で視界の悪かった今川軍は、信長の奇襲に大慌(あわ)てとなり、体勢を立て直すことができないまま義元が信長の家臣に倒され、首を取られてしまいました。
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義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制することが戦勝につながるという信長の考えがありました。
さて、義元の死によって今川氏は急速に勢力が弱まっていったのですが、ここで信長は通常の戦国大名とは全く異なる路線を歩むことになります。
なぜ信長はそのような行動をとったのでしょうか。この「なぜ」を理解することによって、私たちは信長の生涯をかけた「大きな目標」を目の当たりにすることができるのです。
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当時の今川氏は三河から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫も多く、海の幸にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。
通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの領地を狙うことでしょう。しかし、実際には信長は「おいしい」領地には目もくれず、三河の徳川家康(とくがわいえやす、前名を松平元康=まつだいらもとやす)と同盟を結び、家康に今川氏の領地侵攻を任せたうえで、自らは美濃の攻略を目指しているのです。
なぜ信長はこのような手段を選んだのでしょうか。実はこの選択こそが、信長が描いていた「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。
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ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯」の情勢において、天下統一を目指して上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を目指すようなことが果たして可能でしょうか。
こうしたことが頭にあったゆえに、信長は奪えるかもしれない今川氏の領土をあっさりと捨てて家康に三河の攻略を勧めるという、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保しようと考えたのです。
天下統一のためには目先の利益にこだわらず、常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢が、今後の彼の人生やその方針を大きく変えたのでした。
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さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜の名については、名君として知られた古代チャイナの周(しゅう)の文王(ぶんおう、または「ぶんのう」)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば、古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では日本武尊(やまとたけるのみこと)が「草薙(くさなぎ)の剣」でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承から地名が付いたり、あるいは足利(あしかが)氏や新田(にった)氏のように地名を自分の苗字にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。ちなみに信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前となり、例えば信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜(いまはま)の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。
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地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑でした。農民は田植えや稲刈りなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、当然田畑に釘付けになりますよね。
ということは、仮に戦国大名自身の領地が広がったとしても、まさか農民の田畑を動かすわけにはいきませんから、農民自身もそう簡単に移動させることができなかったのですが、信長にはそれが可能だったのです。なぜでしょうか。
実は、信長の兵力は「兵農分離(へいのうぶんり)」された戦争専門の傭兵(ようへい)が中心だったのです。傭兵は命がけで最後まで戦う農民兵とは違って、形勢が不利と判断すれば逃亡することも多かったことで、兵力そのものは弱かったのですが、それを補って余りある「一年中戦える」という強みを持っていました。加えて、傭兵は農民兵のように田畑を持っていないことから移動の自由があり、それゆえに戦国大名が本拠地を移しやすいという長所も持っていたのです。
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信長は、岐阜城周辺の土地を区割りして、家臣から足軽に至るまで半ば強制的に移住させたのです。数千から1万と考えられる動員兵力のすべてが仮に移住したとすれば、その家族を含めて少なくとも数万の人口が集中することになりますから、あっという間に岐阜は我が国有数の都市となりました。
人口が多ければ衣食住において商売が常に成り立ちますから、常設の店舗もすぐに定着しますし、信長は先述した楽市・楽座の政策を行っていますから多額の税を払う必要もありません。さらに、家臣が城下に定住しているということは、領民の安全が保障されるだけでなく、敵が攻めてきた場合にもすぐに戦えるという防衛上のメリットもありますから、まさに良いことづくめと言えますね。
岐阜を新たな城下町として繁栄させることに成功した信長は、大きな目標である天下統一への次の一手として、西の方角へその眼差(まなざ)しを向けていました。
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