手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方で、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が当時の我が国では生産されなかったことから、これを輸入することで貿易が成立することになりました。
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当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを「南蛮人(なんばんじん)」と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」といいます。
南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。
なお、ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭から来日したイギリス人やオランダ人は「紅毛人(こうもうじん)」と呼ばれています。
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イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下(もと)に」侵略を仕掛けることで容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。
ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。
なお、当時のキリスト教はキリシタン(=切支丹)、あるいは天主教(てんしゅきょう)と呼ばれています。
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ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れました。
キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)は、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを当時の年号から「天正遣欧(けんおう)使節」といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、キリシタン大名の大村純忠が信仰心から自領の長崎をイエズス会に寄進(=神社や寺院などの施設に金銭や物品を寄付すること)するという前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は水面下で確実に広がっていきました。
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