応仁の乱を経て室町幕府の権威は有名無実と化し、幕府の実権をめぐって内部の権力争いが激化しました。幕府の実権は、当初は管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)の細川(ほそかわ)氏が握りましたが、細川晴元(ほそかわはるもと)が執事(しつじ)の三好長慶(みよしながよし)の台頭を許し、その長慶も家臣の松永久秀(まつながひさひで)に取って代わられました。
一方、守護大名も京都で幕政を担当している間に守護代(しゅごだい)や家臣に実権を奪われたことで、その多くが没落していきました。名門や旧家が滅びる一方で、まさに下剋上(げこくじょう)の名のもとに、新興勢力が全国各地で続々と誕生しました。いわゆる「戦国大名」のことです。
戦国大名は、自己の実力によって獲得した領国(りょうこく、別名を分国=ぶんこく)を統治しました。戦国大名が活躍した、応仁の乱から室町幕府が滅亡するまでのおよそ100年間を「戦国時代」といいます。
ちなみに、松永久秀は主君の三好長慶を裏切ったのみならず、永禄(えいろく)8(1565)年には13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺し、さらに永禄10(1567)年には東大寺(とうだいじ)に放火して大仏殿が焼け落ちるという大惨事を引き起こしたと伝えられており、戦国時代きっての梟雄(きょうゆう、残忍で強い人物のこと)と呼ばれています。
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しかし、後に鎌倉公方が下総(しもうさ、現在の千葉県北部など)の古河公方(こがくぼう)と伊豆(いず、現在の静岡県南東部など)の堀越公方(ほりごえくぼう)とに分裂すると、上杉氏も山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両家に分かれてお互いに争うようになりました。
これらの混乱に乗じた伊勢宗瑞(いせそうずい)は、京都から下って15世紀末に堀越公方を滅ぼすと、相模(さがみ、現在の神奈川県の大部分)の小田原(おだわら)に進出して、伊豆・相模の2か国を領する大名となりました。
なお、伊勢宗瑞の子の氏綱(うじつな)が後に北条(ほうじょう)氏を名乗ったため、宗瑞は今日では「北条早雲(ほうじょうそううん)」と呼ばれています。なお、北条氏は氏綱やその子の北条氏康(ほうじょううじやす)によって古河公方も滅ぼし、関東の大半を支配する大名となりました。
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甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田(たけだ)氏がそのまま戦国大名となり、武田信玄(たけだしんげん、出家前の名は晴信=はるのぶ)が信濃(しなの、現在の長野県など)に進出すると、謙信と信玄は北信濃の川中島(かわなかじま)で何度も激突しました。いわゆる「川中島の戦い」です。
東海では、守護大名の流れをくむ今川義元(いまがわよしもと)が駿河(するが、現在の静岡県東部)を本拠として勢力を拡大したほか、三河(みかわ、現在の愛知県東部)の松平(まつだいら)氏や尾張(おわり、現在の愛知県西部)の織田(おだ)氏、美濃(みの、現在の岐阜県南部)の斎藤(さいとう)氏らが存在しました。
中国地方では守護大名の大内(おおうち)氏が強大な力を持っていましたが、天文(てんぶん)20(1551)年に大内義隆(おおうちよしたか)が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に倒されると、その晴賢を安芸(あき、現在の広島県西部)の国人(こくじん、地方豪族のこと)出身の毛利元就(もうりもとなり)が天文24(1555)年に滅ぼし、山陰を支配する尼子(あまご)氏と激しく争いました。
この他、四国では長宗我部(ちょうそかべ)氏が、九州では大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)・島津(しまづ)の各氏が、また東北では伊達(だて)氏らが有力な戦国大名として君臨しました。
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国人や地侍らの収入の基準には耕地に課せられた税を銭に換算した貫高(かんだか)が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。これを「貫高制(かんだかせい)」といい、戦国大名の軍事制度の基礎を固める効果をもたらしました。
戦国大名は強力な軍を編成するため、有力な家臣を寄親(よりおや)とし、その下(もと)に一般の武士を寄子(よりこ)として配属させました。これを「寄親・寄子制」といいます。
寄親・寄子制によって、戦国大名は鉄砲や長槍(ながやり)などの新兵器を使った集団戦も可能となったのです。
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分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘を行った当事者の双方を処罰してすべての紛争を大名による裁定に委ねるという喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団の統制の強化を目指しました。
有名な分国法には、朝倉氏の「朝倉敏景十七箇条(あさくらとしかげじゅうしちかじょう)」や武田氏の「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」、今川氏の「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」、伊達氏の「塵芥集(じんかいしゅう)」などがあります。
また、戦国大名は新たに獲得した領地に対して検地(けんち)を行いましたが、この検地は家臣である領主などに耕地の面積や収入額などを自己申告させるものでした。いわゆる「指出(さしだし)検地」のことです。
検地によって農民の耕作面積や年貢量などが検地帳に登録されたことで、戦国大名が農民の耕作権を保障する代わりに農民に対する直接支配を強化しましたが、これによって荘園制度の根幹であった名田(みょうでん)の解体が進みました。なお、この後に行われた豊臣秀吉(とよとみひでよし)の太閤(たいこう)検地によって荘園制度は完全に崩壊(ほうかい)します。
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城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上杉氏の春日山(かすがやま)、朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)などがあります。なお、今川氏の府中は領国である「駿」河の「府」中として「駿府(すんぷ)」と呼ばれました。現在の静岡です。
この他にも、戦国大名は鉱山の開発や治水(ちすい)事業などを積極的に行うとともに、領国内の関所の廃止や組合である座(ざ)を廃止して商品の流通を促進し、領国内の宿駅(しゅくえき)や伝馬(てんま)などの交通制度を整えて、城下町を中心とする経済圏(けん)を自己の領国内につくり上げました。
もっとも、当時の戦国大名の兵力の大半は農民兵であり、平時は農作業を行うことから地方への長期間の滞在(たいざい)が事実上不可能であったため、各大名は天下統一よりも周辺諸国への領地拡大を目指していました。
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この頃には各地の寺社が参詣者(さんけいしゃ)の増加に努めたため、門前町(もんぜんまち)や寺内町(じないまち)が発展しました。特に寺内町には門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の商工業者が集結したことで、新設の市場や町が開かれました。
主な門前町としては伊勢神宮の宇治(うじ)・山田(やまだ、いずれも現在の伊勢市)や善光寺(ぜんこうじ)の長野などがあり、寺内町としては一向宗(いっこうしゅう)の摂津(せっつ)の石山(いしやま、現在の大阪市)や加賀(かが、現在の石川県南部)の金沢などがあります。
戦国大名の中には、自由な商業取引のために販売座席たる市座(いちざ)や市場税などを免除する楽市(らくいち)や商業などにおける独占的な組合の座を撤廃(てっぱい)する楽座(らくざ)を行う者もいました。この楽市・楽座を自己の領地で大々的に展開した一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づいていきました。その名を「織田信長(おだのぶなが)」といいます。
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交通手段の発達が人の流れを活発にしたことで、行商(ぎょうしょう)や巡礼(じゅんれい、聖地や霊場をめぐって旅をすること)が盛んとなり、各地で港町(みなとまち)や宿場町(しゅくばまち)が繁栄(はんえい)しました。これらの都市の中には、富裕(ふゆう)な商工業者たちが自治の組織をつくり、堀(ほり)をめぐらすなどして防御を固め、大名から独立するものも現れました。
代表的な港町としては、日明(にちみん)貿易の根拠地となった堺(さかい)や博多(はかた)、あるいは伊勢の桑名(くわな)などがあり、特に堺は36人の会合衆(かいごうしゅう、または「えごうしゅう」)、博多は12人の年行司(ねんぎょうじ)と呼ばれる豪商の会議によって市政が運営されるという、一種の自由都市(じゆうとし)の性格を持っていました。
この他、京都においても町衆(まちしゅう)と呼ばれた富裕な商工業者を中心に自治的団体である町(ちょう)が結成され、惣村(そうそん)と同じように独自の町法(ちょうほう)が定められました。町が集まって町組(ちょうぐみ)という組織がつくられ、町衆の自治組織は月行事(がつぎょうじ、または「がちぎょうじ」)と呼ばれる代表者によって自治的に運営されました。
ちなみに、これらの町衆が戦災で大きな被害を受けた京都を復興したことによって、明応(めいおう)9(1500)年には京都の最大の祭りである祇園祭(ぎおんまつり)が再興されています。
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大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるポルトガルとイスパニア(=スペイン)でした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ、ここでは国家の財産全体のこと)の増大を目指す重商主義に基づいて植民地の獲得に力を注ぎました。
1492年、イタリア人のコロンブスがイスパニアのイサベル女王の援助を受けて西廻(まわ)りで大西洋(たいせいよう)を横断して西インド諸島に到達すると、1498年にはポルトガル人のヴァスコ=ダ=ガマが東廻りでアフリカ大陸南端の喜望峰(きぼうほう)を経由してインドのカリカットに到着しました。
また、イスパニアの船隊を率いたポルトガル人のマゼランがアメリカ大陸の南端経由で太平洋に出て1521年にフィリピン諸島に到着すると、その後に船隊がさらに西進を続けて世界一周を果たしました。
なお、西インド諸島は現在のアメリカのフロリダ半島南端やキューバ、ドミニカ、ジャマイカ、バハマなどであり、インドとは全く関係がありません。にもかかわらず「西インド諸島」と名づけられたのは、コロンブスがこの地域をインドと誤解したからです。
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一方、イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領してルソン島のマニラを根拠地としました。要するにポルトガルは東廻りで、イスパニアは西廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。
なお、ポルトガルやイスパニアがそれぞれアジアに進出した目的の一つにアジアの物産、特に香辛料(こうしんりょう)を直接手に入れることがありました。当時の香辛料にはクローブ・胡椒(コショウ)・ナツメグ・シナモンなどがあり、調味料や薬として使用されていました。
それまでヨーロッパ人はイスラームの商人を通じて香辛料などを入手していましたが、大変高価なものとなっていました。このため、自らが航海に出ることで香辛料を安く手に入れようと考えたのです。
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当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めがカトリックのローマ教皇(きょうこう)の承認によって結ばれました。これを「トルデシリャス条約」といいます。
地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程で南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産さらには文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じていたのです。
一方、当時の東アジア地域では、明が倭寇(わこう)の鎮圧や密貿易の禁止のために海禁政策をとっていましたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球(りゅうきゅう)・安南(あんなん、現在のベトナム)などの人々が幅広く中継(なかつぎ)貿易を行っていました。ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加することで莫大(ばくだい)な権益を得ようとする目的もあったのです。
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手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方で、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が当時の我が国では生産されなかったことから、これを輸入することで貿易が成立することになりました。
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当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを「南蛮人(なんばんじん)」と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」といいます。
南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。
なお、ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭から来日したイギリス人やオランダ人は「紅毛人(こうもうじん)」と呼ばれています。
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イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下(もと)に」侵略を仕掛けることで容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。
ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。
なお、当時のキリスト教はキリシタン(=切支丹)、あるいは天主教(てんしゅきょう)と呼ばれています。
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ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れました。
キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)は、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを当時の年号から「天正遣欧(けんおう)使節」といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、キリシタン大名の大村純忠が信仰心から自領の長崎をイエズス会に寄進(=神社や寺院などの施設に金銭や物品を寄付すること)するという前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は水面下で確実に広がっていきました。
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そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑んだ人物が現れました。もちろん「織田信長」のことです。
さて、信長の出身である織田家はもともと尾張の守護大名であった斯波(しば)氏の代理人である守護代の家臣という身分でしたが、父である織田信秀(おだのぶひで)の頃には独立し、尾張の中で大きな勢力を持つようになりました。
信秀の急死後に若くして家督(かとく)を継いだ信長は身内を含めた争いに勝ち抜き、永禄2(1559)年には尾張一国を統一するまでに成長しましたが、そんな彼に大きな試練が不気味な足音とともに東の方角からやって来ました。
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家臣からは籠城(ろうじょう)を勧める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣し、熱田(あつた)神宮で戦勝祈願を行いました。
実は、信長は家臣からもたらされる「ある情報」を待っていたのです。そして、その情報こそが、圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一の手段でもありました。
やがて、信長に待望の「情報」がもたらされました。義元が窪地(くぼち)で身動きの取りにくい桶狭間(おけはざま)を行軍中だというのです。これを好機と見た信長は、ほぼ全軍を桶狭間に向かって突撃させました。折からの豪雨で視界の悪かった今川軍は、信長の奇襲に大慌(あわ)てとなり、体勢を立て直すことができないまま義元が信長の家臣に倒され、首を取られてしまいました。
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義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制することが戦勝につながるという信長の考えがありました。
さて、義元の死によって今川氏は急速に勢力が弱まっていったのですが、ここで信長は通常の戦国大名とは全く異なる路線を歩むことになります。
なぜ信長はそのような行動をとったのでしょうか。この「なぜ」を理解することによって、私たちは信長の生涯をかけた「大きな目標」を目の当たりにすることができるのです。
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当時の今川氏は三河から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫も多く、海の幸にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。
通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの領地を狙うことでしょう。しかし、実際には信長は「おいしい」領地には目もくれず、三河の徳川家康(とくがわいえやす、前名を松平元康=まつだいらもとやす)と同盟を結び、家康に今川氏の領地侵攻を任せたうえで、自らは美濃の攻略を目指しているのです。
なぜ信長はこのような手段を選んだのでしょうか。実はこの選択こそが、信長が描いていた「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。
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ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯」の情勢において、天下統一を目指して上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を目指すようなことが果たして可能でしょうか。
こうしたことが頭にあったゆえに、信長は奪えるかもしれない今川氏の領土をあっさりと捨てて家康に三河の攻略を勧めるという、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保しようと考えたのです。
天下統一のためには目先の利益にこだわらず、常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢が、今後の彼の人生やその方針を大きく変えたのでした。
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さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜の名については、名君として知られた古代チャイナの周(しゅう)の文王(ぶんおう、または「ぶんのう」)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば、古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では日本武尊(やまとたけるのみこと)が「草薙(くさなぎ)の剣」でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承から地名が付いたり、あるいは足利(あしかが)氏や新田(にった)氏のように地名を自分の苗字にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。ちなみに信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前となり、例えば信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜(いまはま)の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。
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