日本の参戦によって、同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として、全世界を巻き込んだ本格的な戦争となりました。なお、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)などは「連合国」と呼ばれ、日本・ドイツ・イタリアは「枢軸国(すうじくこく)」と呼ばれました。
ところで、大東亜戦争の呼称は戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって使用が禁止され、太平洋戦争と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようです。
しかし、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して、後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせることはできません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」という呼称で統一します。
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東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決した日本軍は、同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島・ウェーク島・イギリス領香港・マニラ・セレベス島・ラバウル・ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と上陸あるいは占領し続けました。
そして翌昭和17(1942)年2月15日には、イギリスのアジア支配の拠点であったシンガポールを陥落(かんらく)させ、さらに翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領し、オランダ軍を降伏させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは、日本軍に追いつめられて敵前逃亡しましたが、軍歴に消すことのできない汚点を残したことで我が国を深く恨み、後のGHQによる我が国の占領支配に影響を与えたともいわれています。
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日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しました。
日本軍が新たに占領した旧植民地に対して、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマやインドネシアでは独立のための義勇軍が組織され、軍事訓練が行われました。
また、イギリス軍のインド兵の多くは、日本軍の捕虜(ほりょ)となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立を目指して日本軍と共にイギリス軍と戦うようになりました。
なお、日本軍は大多数の地域で、支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられましたが、その一方で、東南アジアの植民地の分断支配を任され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑(かきょう)を中心とする反発もありました。
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この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力しました。こういった経緯から、この選挙は「翼賛選挙」とも呼ばれています。
ところで、この翼賛選挙によって、帝国議会は政府の提案の承認を与えるだけの機関と化してしまったとみなす見解が多いようですが、実際には大日本帝国憲法(=明治憲法)や議会活動は停止したことはありませんでしたし、いわゆる翼賛政治家以外の代議士も85人誕生しているという事実も存在しています。
なお、この選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けた候補者には、臨時軍事費として計上された機密資金を利用した選挙資金が配られていました。民間からの資金提供を受けていないという点ではクリーンと言える一方で、選挙民や財閥(ざいばつ)などの顔色を一切うかがう必要がないかわりに、資金提供を受けた軍部の意向に逆らいにくいという流れもありました。
かつて国家社会主義思想が我が国で広がりを見せた際に、軍部を中心に「政党政治は腐敗(ふはい)している」と国民に対して喧伝(けんでん、さかんに言いふらすこと)されましたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙も、その裏では「軍部と癒着(ゆちゃく)」していたのみならず、民間の意見が取り入れられない環境にあったのです。
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「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下(へいか)の切実なお祈りのお気持ちを私たちは知ることができますが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となってしまいました。
しかし、先述したとおり、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。
もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違いありませんが、果たしてそれは可能だったのでしょうか。
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日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。
このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲裁を受けて講和に応じたことで、我が国は辛くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ、我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は、政治力による「政略」なのです。
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我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前から講和への道を探っていました。
日露両国に対して中立的な立場であったアメリカを我が国が仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動が成果を挙げたりするなど、我が国は少しでも自国に有利な展開になるように、あらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
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しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法の制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」のことです。
大日本帝国憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
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なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の独走は、やがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
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例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで、「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
要するに、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
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これまで述べてきたように、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を見せており、もし戦局が有利な段階で諸外国との講和が結ばれていれば、戦争を勝利のうちに終わらせることは十分に可能でした。
大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢(ちゅうすう)の人材が払底(ふってい)あるいは堕落(だらく)し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育で学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。
「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に見失ってはならないのです。
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