昭和16(1941)年12月8日(日本時間)、山本五十六(やまもといそろく)司令長官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。
かくして日米両国がついに戦争を始めた訳ですが、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯(ひきょう)な奇襲」とフランクリン=ルーズベルト大統領が主張したことによって、アメリカの世論は一気に戦争賛美となり、日本を叩き潰(つぶ)すことが正義とまで考えられるようになってしまいました。
しかし、我が国は真珠湾をまるで騙(だま)し討ちのように奇襲する意図は全くありませんでした。政府も連合艦隊も、開戦の通告を行ってから真珠湾攻撃を開始するつもりで周到な準備を重ね、開戦の30分前にはアメリカのハル国務長官に対して国交断絶の通告を渡す予定でした。
それなのに、現地(=ワシントン)の日本大使館の大失態でアメリカへの伝達が遅れたため、アメリカ国民に「日本軍が奇襲攻撃を仕掛けた」と誤解されてしまったのです。
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ところが、日本大使館の職員が、同僚の送別会を行うために総出で引き上げてしまったことで、国交断絶の通告たる「対米覚書」の解読が遅れてしまったのです。対米覚書は現地時間の12月7日午後1時にアメリカに手渡さなければならなかったのですが、解読に手間取った大使館側は、アメリカに対して独断で「約束の時間をもう1時間延ばしてほしい」と頼み込んでしまいました。
言うまでもないことですが、大使館側の身勝手な都合が、はるか遠くで攻撃の準備を進めていた連合艦隊に伝わるはずがありません。結局、大使館側が対米覚書をハル国務長官に届けたのは同日の午後2時20分であり、真珠湾攻撃が終わってから約1時間も経ってからのことでした。
かくして、日本大使館員の常識外れの怠慢(たいまん)によって、真珠湾攻撃が我が国による「奇襲」とみなされるとともに、フランクリン=ルーズベルト大統領が「奇襲攻撃後に断交通知を持ってきた日本ほど、卑劣(ひれつ)で悪辣(あくらつ)な国はない」と喧伝(けんでん、さかんに言いふらすこと)するなど、日本側の大失態を最大限に利用する流れをつくってしまったのです。
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一方、これだけの弁解の余地もない大失態をやらかした大使館員たちですが、彼らは「タイピングに手間取って遅れた」と言い訳して、自分たちのミスをごまかしたのみならず、その後も口を堅く閉ざして一切の責任を取ることなく戦後に出世を重ね、中には昭和天皇の側近として仕えた者までいます。
国交断絶の通告を手渡すということは、それこそ国家の命運がかかった重要な手続きです。解読が遅れそうであれば清書せずに手渡したり、最悪の場合は要旨(ようし)だけを口頭(こうとう)で伝えて文書を後回しにしたりするなど、いくらでもやり方があったはずです。
重要な局面で信じられないような大失態をおかした当時の大使館員の責任問題ですが、我が国の国益や誇りを断固として守るのであれば、このまま風化させてしまうことが果たして許されてよいものでしょうか。
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その際、我が国の大使館員の怠慢によって、フランクリン=ルーズベルト大統領が「日本軍による騙し討ち」と喧伝して「リメンバー・パールハーバー」と唱えたことで、それまで反戦気分の強かったアメリカ国民の我が国に対する敵愾心(てきがいしん)を一気に高め、国家を挙げて対日参戦のムードをつくり上げることに成功しました。
ところが、我が国が真珠湾攻撃を行うことを、ルーズベルト大統領をはじめとするアメリカ政府首脳が事前にすべて察知しており、我が国が「先制攻撃」を仕掛けてくるのを待ち構えていたという説があることを皆さんはご存知でしょうか。
当時のアメリカは、我が国の秘密文書の暗号をことごとく解読しており、日本大使館が慌(あわ)てて準備していた国交断絶の通告たる「対米覚書」も、解読のうえルーズベルト大統領に事前に手渡されていたというのです。
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まず真珠湾攻撃の以前、アメリカがハル・ノートを我が国に通告した直後に、真珠湾を母港とする2隻(せき)の航空母艦(=空母)すべてが、本国の命令によって新鋭艦を伴って出港しました。この結果、真珠湾に残った軍艦は、そのほとんどが第一次世界大戦以来の旧型艦しかなく、しかも空母が存在しないという状態となってしまっていたのです。
またアメリカは、暗号の解読によって、我が国の開戦決定と真珠湾攻撃の予定日を事前に知りながら、極めて重要なはずのその情報をハワイに知らせるのを遅らせたため、現地の太平洋艦隊司令官が実際に情報を受け取ったのは、真珠湾攻撃が終わってから何と6時間以上も経ってからでした。
真珠湾が攻撃された昭和16(1941)年12月7日(現地時間)は日曜日だったため、何も知らされていない現地の司令官は当日にゴルフを楽しむ予定だったと伝えられています。この事実は何を意味しているのでしょうか。
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しかし、実際に彼が攻撃前夜に取った行動は、ホワイトハウスに家族を招いての食事会でした。その際にルーズベルト大統領は「戦争は明日始まる」と家族に対して満足そうに言ったとされています。
なぜ大統領は嬉(うれ)しそうだったのでしょうか。それは、彼にとって悲願であった「日本を挑発し続けることで先制攻撃させて、その結果アメリカが第二次世界大戦に堂々と参戦できる」という目標が達成されようとしていたからです。
そして、その悲願は、大西洋を越えたイギリスの首相であるチャーチルにとっても同じことでした。
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そして我が国が真珠湾攻撃を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに「長い間の苦しみから解放された」と後に書かれた自著の中で述べています。
かくしてルーズベルト大統領は、アメリカをヨーロッパ戦線に参加させるために日本をギリギリの状態にまで追い込み、先制攻撃させるよう罠(わな)を仕掛けましたが、それは同時に、真珠湾攻撃によって戦死したハワイの太平洋艦隊の兵士たち数千人を「生贄(いけにえ)」にしたことも意味していました。
ルーズベルト大統領の政敵で、当時は野党だった共和党のリーダーを務めたハミルトン=フィッシュは、後に出版した回顧録の中で「私たちはルーズベルトが欺(あざむ)いて(アメリカを)戦争に導いたなどとは(当時は)疑いもしなかった」と述べています。
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しかし、大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏を返せば、我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している、とも言えるのではないでしょうか。
なぜなら、ルーズベルトがアメリカの大統領である以上、彼がアメリカの国益を第一に考え、日本がその障害になるのであれば取り除こうとするのは、むしろ当然だからです。アメリカ側から見れば、彼の一連の行動、すなわち当時のアメリカは少しも悪くありません。
では、当時の世界における「アメリカにとっての最大限の国益」とは、いったい何だったのでしょうか。
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こうした事態を打開するためには、イギリスの要請を受けて第二次世界大戦に参加し、戦争がもたらす様々な特需によって経済を発展させるしかないとルーズベルト大統領は考えましたが、当時のアメリカは伝統的に「孤立主義」であり、他国の戦争に介入することを嫌っていました。
反戦ムードに満ちた国内の雰囲気を察したルーズベルト大統領は、自らの本音を封印して「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約し、1940(昭和15)年に三選を果たすと、イギリスなどと連携して日本を挑発し、先制攻撃をさせることで、アメリカがヨーロッパ戦線に参加できるように仕向けました。
ありとあらゆる工作や謀略を行ったルーズベルト大統領は、最終的にハル・ノートを突き付けることによって日本に真珠湾攻撃をさせるとともに、現地の司令官に情報を流さなかったりしたことでわざと日本を勝たせ(るように見せかけ)て、空母や最新鋭の軍艦を事前に真珠湾から脱出させることで、実害を最小限に食い止めました。
こうしてアメリカの第二次世界大戦への参加の大義名分をつくり出したルーズベルト大統領は、日本大使館の怠慢で国交断絶の通告が遅れたことも最大限に活用して「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを完成させ、彼の予想どおりに戦争特需が起きて、アメリカ経済は劇的な回復を遂(と)げたのです。
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ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築する」ことは、ルーズベルト大統領が1945(昭和20)年に急死すると、後継のトルーマン大統領も果たせず、それどころか、ソ連(現在のロシア)や中華人民共和国といった共産主義国家を戦後に急成長させる結果となりました。
これは、ルーズベルト大統領の周囲にソ連(=コミンテルン)のスパイが多数存在していたことが原因とされていますが、それ以外にも、日本との戦争が長期間にわたり、約10万人という予想外の多数の戦死者を出したことなどが、戦後のルーズベルト大統領の評価を下げることにつながりました。
ルーズベルト大統領に関する様々な評価を見れば、国益を追求し続けることの難しさや、謀略を仕掛けた一方で自分自身が謀略に引っかかっていたことなど、人間の生き様の複雑さや困難さを思い知らされます。
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繰り返しますが、私たち日本国民が、ルーズベルト大統領による一連の手法を「卑劣」であると一方的に断じることがあっても、それならそれで、なぜ当時の日本政府の首脳がルーズベルト大統領に勝てなかったのかということを「反省」する必要もあるのではないでしょうか。
戦いに敗れた相手を罵(ののし)るだけでは、私たちは永遠にその相手には勝てません。もし将来にリベンジの機会があった場合、絶対に負けないようにするには私たちに何が足りないのか。あるいはどの部分を「改良」すれば勝てるのか。
二度と負けられない「次」のためにあらん限りの対策を考え、それを実行することこそが、我が国の輝かしい未来を信じて潔く散っていった無数の戦死者や犠牲者、すなわち「英霊」の皆様に報いる道ではないでしょうか。
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日本の参戦によって、同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心として、全世界を巻き込んだ本格的な戦争となりました。なお、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)などは「連合国」と呼ばれ、日本・ドイツ・イタリアは「枢軸国(すうじくこく)」と呼ばれました。
ところで、大東亜戦争の呼称は戦後にGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)によって使用が禁止され、太平洋戦争と呼ばれるようになりました。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記も見られるようです。
しかし、歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して、後世の人間が勝手に名称を改めるというようなことをするべきではありません。名は体を表すと言います。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせることはできません。従いまして、当講座では「大東亜戦争」という呼称で統一します。
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東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決した日本軍は、同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島・ウェーク島・イギリス領香港・マニラ・セレベス島・ラバウル・ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と上陸あるいは占領し続けました。
そして翌昭和17(1942)年2月15日には、イギリスのアジア支配の拠点であったシンガポールを陥落(かんらく)させ、さらに翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(現在のジャカルタ)を占領し、オランダ軍を降伏させました。
同じ3月にはビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)も占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦を制しました。
なお、フィリピンでの戦いに敗れた現地司令官のマッカーサーは、日本軍に追いつめられて敵前逃亡しましたが、軍歴に消すことのできない汚点を残したことで我が国を深く恨み、後のGHQによる我が国の占領支配に影響を与えたともいわれています。
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日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しました。
日本軍が新たに占領した旧植民地に対して、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマやインドネシアでは独立のための義勇軍が組織され、軍事訓練が行われました。
また、イギリス軍のインド兵の多くは、日本軍の捕虜(ほりょ)となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立を目指して日本軍と共にイギリス軍と戦うようになりました。
なお、日本軍は大多数の地域で、支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられましたが、その一方で、東南アジアの植民地の分断支配を任され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑(かきょう)を中心とする反発もありました。
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この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力しました。こういった経緯から、この選挙は「翼賛選挙」とも呼ばれています。
ところで、この翼賛選挙によって、帝国議会は政府の提案の承認を与えるだけの機関と化してしまったとみなす見解が多いようですが、実際には大日本帝国憲法(=明治憲法)や議会活動は停止したことはありませんでしたし、いわゆる翼賛政治家以外の代議士も85人誕生しているという事実も存在しています。
なお、この選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けた候補者には、臨時軍事費として計上された機密資金を利用した選挙資金が配られていました。民間からの資金提供を受けていないという点ではクリーンと言える一方で、選挙民や財閥(ざいばつ)などの顔色を一切うかがう必要がないかわりに、資金提供を受けた軍部の意向に逆らいにくいという流れもありました。
かつて国家社会主義思想が我が国で広がりを見せた際に、軍部を中心に「政党政治は腐敗(ふはい)している」と国民に対して喧伝(けんでん、さかんに言いふらすこと)されましたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙も、その裏では「軍部と癒着(ゆちゃく)」していたのみならず、民間の意見が取り入れられない環境にあったのです。
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「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下(へいか)の切実なお祈りのお気持ちを私たちは知ることができますが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となってしまいました。
しかし、先述したとおり、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領あるいは支配し、石油などの重要資源も確保しました。
もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わったことは間違いありませんが、果たしてそれは可能だったのでしょうか。
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日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。
このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがアメリカの仲裁を受けて講和に応じたことで、我が国は辛くも勝利を収めることができました。
つまり、アメリカの仲裁やロシアの政情不安があったからこそ、我が国は日露戦争を制することができたともいえるのですが、勝利をもたらした背景には何があったのでしょうか。
実は、政治力による「政略」なのです。
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我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前から講和への道を探っていました。
日露両国に対して中立的な立場であったアメリカを我が国が仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎(あかしもとじろう)による諜報(ちょうほう)活動が成果を挙げたりするなど、我が国は少しでも自国に有利な展開になるように、あらゆる努力を重ねました。
開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのです。
戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったのですが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまったのはなぜでしょうか。
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しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下したのみならず、大日本帝国憲法の制定時には予期していなかった大きな問題が起きました。いわゆる「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」のことです。
大日本帝国憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
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なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまいました。
軍部の独走は、やがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに、講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。
しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
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例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して、何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
かくして、我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで、「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
要するに、統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部自身が動きを封じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及んでしまったばかりか、戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま、我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
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