我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は嘉吉(かきつ)3(1443)年に嘉吉条約(別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで対馬の宗(そう)氏に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために「李氏(りし)朝鮮」とも呼ばれています。
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日朝貿易は、応永26(1419)年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永の外寇(がいこう)」によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合をまねた「通信符(つうしんふ)」が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは後述する琉球(りゅうきゅう)貿易で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦(さんぽ)に住む日本人と現地の役人との間で永正(えいしょう)7(1510)年に紛争が起きました。この「三浦の乱」によって、日朝貿易は次第に衰退していきました。
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琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易といいます。琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における「中継(なかつぎ)貿易」の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によってチャイナや朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
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やがて奥州の住人の中から蝦夷ヶ島(えぞがしま)と呼ばれた北海道の南部に進出し、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤(あんどう)氏(別名を安東氏)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は、次第にアイヌとの関係悪化をもたらしました。
アイヌは長禄(ちょうろく)元(1457)年に首長(しゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎(かきざき)氏によって鎮圧されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前(まつまえ)氏を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市にある志苔館(しのりたて)が有名です。また、志苔館の付近からは当時の経済的繁栄を裏付ける大量の古銭が発見されています。
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