一方、南北朝の動乱の頃には、西国の武士や漁民らによって武装した船団が組まれ、朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲(おそ)うようになりました。これらの海賊(かいぞく)は「倭寇(わこう)」と呼ばれ、沿岸住民から恐れられました。
ところで、倭寇は襲来(しゅうらい)の時期によって大きく二つに分かれます。南北朝時代の頃を中心とする「前期倭寇」は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)や壱岐(いき、現在の長崎県壱岐市)、あるいは肥前(ひぜん、ここでは長崎県)の松浦(まつら)地方を拠点とし、日本人を中心に構成されていました。
これに対して、15世紀後半から16世紀にかけての「後期倭寇」は肥前の平戸(ひらど)や五島(ごとう)を拠点としているものの、その大部分は中国人であり、大陸沿海での密貿易を主に行っていました。なお後期倭寇は、我が国を統一しつつあった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天正(てんしょう)16(1588)年に海賊取締令を出して厳しく対処したことで鎮圧されています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両国が照合することで私貿易と区別していたので、別名を「勘合貿易」とも呼ばれています。
日明貿易は、朝貢形式を嫌った4代将軍の足利義持(あしかがよしもち)によって応永(おうえい)18(1411)年に一旦は中断されましたが、幕府の財源確保を優先した6代将軍の足利義教によって永享(えいきょう)4(1432)年に再開されました。
日明貿易は聖徳太子(しょうとくたいし)以来の自主独立の外交路線に反した朝貢貿易でしたが、宗主国の立場である明が滞在費(たいざいひ)や運搬費(うんぱんひ)などのすべての費用を負担したので、我が国は大きな利益を得ることができました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」は、朝貢貿易での下賜(かし)を目的として鋳造(ちゅうぞう)されたものであり、それを日本国内で流通させることは、いかに形式的とはいえ、我が国が経済的にチャイナの傘下(さんか)に入ったことを意味していました。我が国が独自につくった銅銭は、江戸時代の「寛永通宝(かんえいつうほう)」まで待つことになります。
さて、室町幕府が衰え始めた15世紀後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川(ほそかわ)氏と、博多の商人と結んだ大内(おおうち)氏の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、大永(だいえい)3(1523)年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突しました。この争いを「寧波の乱」といいます。
両者の戦いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、天文(てんぶん)20(1551)年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となり、先述した後期倭寇の活動が目立つようになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。