また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようになりました。
肥料としては、それまでの刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)に加えて、人間の排泄物(はいせつぶつ)である下肥(しもごえ)が用いられるようになり、地味(ちみ、生産力から見た土地の質のよしあしのこと)の向上や収穫の安定化をもたらしました。
手工業がこの頃までに盛んになったことから、それらの原料となる苧(からむし)や桑(くわ)・楮(こうぞ)・藍(あい)・茶などの栽培が広まりましたが、農村加工業の発達によってこれらが商品として流通するようになり、生産性の向上も相まって、農民の暮らしは豊かになりました。
暮らしが豊かになったことで生活に余裕が生まれたことから物資の需要が高まると、やがて農村にも商品経済が発達していきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行われ、塩田(えんでん)に海水をくみ上げ、自然に蒸発させて濃縮したものを煮つめる揚浜(あげはま)や、伊勢(いせ、現在の三重県北中部など)地方などで潮の満ち引きを利用して海水を導入する古式入浜(こしきいりはま、後の入浜塩田=いりはまえんでん)が行われました。
鍛冶(かじ)では刀剣や農具の製作が盛んとなり、特に刀剣は武士の必需品となった他に日明貿易の主要な輸出品として、備前(びぜん、現在の岡山県東南部など)や山城(やましろ、現在の京都府南部)、大和(やまと、現在の奈良県)などで多数がつくられました。
手工業の同業者組合である座(ざ)もその種類や数を増やして各地域に広まり、なかには朝廷や大寺社の権威のもとで、通行税である関銭の免除や広範囲における独占的販売権を認められ、全国的な商売を展開した座もありましたが、その一方で座に加わらない新興商人も現れ、やがて座と対立するようになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。
この他、京都や奈良・鎌倉などの大都市では見世棚(みせだな、別名を店棚)と呼ばれた常設の小売店舗(こうりてんぽ)が一般化するようになりました。
さらには商品の取引量の増加によって、京都の米場(こめば)や淀(よど)の魚市(うおいち)のように、特定の商品だけを扱う市場も現れました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。
その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引に当たって悪銭(あくせん)を選び捨てて良質の貨幣のみを求める撰銭(えりぜに、または「せんせん」)が行われました。
これを受けて、幕府や大名などは良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して、銭の円滑な流通を目指しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質入れされた品物を保管するために、土塗(つちぬ)りの壁で周りを囲った倉庫である土蔵(どぞう)を建てたことに由来します。
商業流通の活発化によって、物資を輸送するための海や川、あるいは陸における交通手段も発達しました。水上の輸送では廻船業者が活躍したほか、交通の要地には鎌倉時代の問丸(といまる)から発達した問屋(といや)が置かれ、多くの地方都市の繁栄をもたらしました。この他にも、多数の物資を運ぶために京都の輸送路を中心に各地で馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)などの運送業者が活躍しました。
なお、馬借とは馬の背に荷物を載せて運ぶ輸送業者のことであり、水陸交通の要地や主要街道沿(ぞ)いの町に集団で住み、船で運ばれたものを京都や奈良などに運び込んでいました。また、車借とは牛(もしくは馬)に車を引かせて荷物を運ぶ輸送業者のことです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。