足利義教(あしかがよしのり)の死後に幕府の権威が著しく低下した理由の一つに「将軍の後継者不足」がありました。義教は天台座主(てんだいざす)から還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して将軍になったため、暗殺された当時に二人いた男子がまだ幼かったのです。
義教の後を継いで嘉吉(かきつ)2(1442)年に7代将軍となった足利義勝(あしかがよしかつ)でしたが、就任時わずか9歳では自ら政治ができるはずもなく、しかも翌嘉吉3(1443)年に急死してしまい、その後は弟の足利義政(あしかがよしまさ)が8歳で8代将軍となりました。
就任した当初の義政は、祖父の足利義満(あしかがよしみつ)や父の義教にならって将軍権力の復活を図り、永享(えいきょう)の乱の後に鎌倉公方となった足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛にも積極的に関わりました。なお、享徳(きょうとく)3(1454)年に始まった成氏と上杉氏との争いを、当時の年号から「享徳の乱」といいます。
しかし、義政の妻である日野富子(ひのとみこ)や妻の実家の日野氏、あるいは有力な守護大名らが次々と政治に介入したことで、いつしか義政は政治への関心を失って贅沢(ぜいたく)な暮らしを始めたため、将軍としての人望を失ってしまいました。政治への興味をなくした義政は、将軍の地位を誰かに譲って気ままに余生を過ごしたいと思いましたが、妻の富子との間には将軍後継となるべき成長した男子がいませんでした。
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義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません。しかし、初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)のように優柔不断な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経っても後継を決めないことに業(ごう)を煮やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が侍所(さむらいどころ)の長官である四職(ししき)筆頭の山名持豊(やまなもちとよ、出家後の名は山名宗全=やまなそうぜん)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏がこれを好機として、幕府の政治の実権を握ろうとお互いに争い始めました。
この他にも守護大名の畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の家督(かとく)争いがからんだことで、応仁(おうにん)元(1467)年についに京都で大きな戦いが起きてしまいました。戦国時代の幕開けともいわれる「応仁の乱」の始まりです。
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緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返して将軍義政を保護したことで、東軍の優勢となりました。しかし、今度は山名氏が守護大名の大内政弘(おおうちまさひろ)に声をかけて京都へと攻めのぼらせるなど、両軍は一進一退の戦いを続けました。
そんな折、応仁の乱のきっかけをつくった当事者たちに異変が起きました。将軍義政の弟である義視は東軍の細川氏についていましたが、細川氏が義政を迎え入れた後に、義視の政敵である伊勢貞親(いせさだちか)が再び重用されたことに反発して出奔(しゅっぽん)しました。
翌応仁2(1468)年に一旦は京都へ戻ったものの再び出奔した義視は、こともあろうにライバルの義尚を支持していた西軍の山名氏へと身を投じました。これは、将軍を奪われて大義名分を失っていた山名宗全が、巻き返しの手段として義視を迎えたためと考えられており、事実、この後山名氏は義視を「将軍格」として様々な人事を発令しています。
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これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって、延々と果てしなく続けられました。
その後、文明(ぶんめい)5(1473)年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の文明9(1477)年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
応仁の乱が終わったことで、守護大名はそれぞれの領国に戻りましたが、一度火がついた争いは全国に拡大して、各地の荘園も混乱の中でその多くが守護代(しゅごだい)や地方豪族である国人(こくじん)などの支配下に入りました。
また、応仁の乱の頃から大名の兵力の中で「足軽(あしがる)」の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地で暴徒化して略奪(りゃくだつ)を繰り返しました。
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文明17(1485)年、京都に近い南山城(みなみやましろ)地方の国人の指導によって分裂していた畠山氏の軍を国外へ追放し、約8年間にわたる一揆の自治支配を実現させました。これを「山城の国一揆」といいます。このように、身分の下の者が上の者の勢力をしのぐことを「下剋上(げこくじょう)」といい、この時代の大きな特徴になりました。
また、蓮如(れんにょ)による布教で広まった浄土真宗(じょうどしんしゅう)の門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)たちが、信仰による大きな力によってしばしば一揆を起こしました。浄土真宗は別名を一向宗(いっこうしゅう)ということから、浄土真宗の門徒が起こす一揆のことを「一向一揆」といいます。
なかでも加賀(かが、現在の石川県南部)の門徒たちは、国人と協力して長享(ちょうきょう)2(1488)年に守護であった富樫政親(とがしまさちか)を倒した後に、本願寺の僧侶(そうりょ)と門徒の農民を中心として、織田信長(おだのぶなが)に滅ぼされるまで約1世紀にわたって支配を続けました。これを「加賀の一向一揆」といいます。
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惣村では、結合の中心となった宮座(みやざ)と呼ばれる神社の氏子(うじこ)組織による村の神社の祭礼や農業における共同作業、あるいは戦乱に対する自衛などを通じて村民たちの結合への意識を高めていきました。このような惣村を構成する村民を「惣百姓(そうびゃくしょう)」といいます。
惣村は村民の代表者で構成される寄合(よりあい)の協議に基づいて、乙名(おとな、別名を長=おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄(としより)などと呼ばれた村の指導者によって運営されました。また、村民は村の規則である惣掟(そうおきて、別名を村法=そんぽう、または村掟=むらおきて)を定めたり、村内の秩序を維持するために村民自身が警察権を行使する地下検断(じげけんだん、別名を自検断=じけんだん)を行ったりしました。
やがて惣村では薪炭(しんたん、たきぎやすみなどの燃料のこと)や肥料用の草木(そうもく)を育てるためなど、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地である入会地(いりあいち)を確保したり、灌漑(かんがい)用水を管理したりするようになりました。
また、それまでは守護や地頭が請け負っていた年貢(ねんぐ)を惣全体でひとまとめにして請け負うという地下請(じげうけ、別名を村請=むらうけ、または百姓請=ひゃくしょううけ)も広がっていきました。
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農民たちは正式な手続きを踏まずに領主のもとに押しかける強訴(ごうそ)や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込むという逃散(ちょうさん)を行ったり、さらには武力によって反抗したりしました。これを「土一揆(つちいっき、または「どいっき」)」といい、土一揆の多くが徳政を要求したことから「徳政一揆」とも呼ばれます。
なお、土一揆はその地に土着した農民が一揆を起こしたのが名前の由来とされています。また、当時の社会で「支配者が交代することで色々な関係がリセットする」という考えがあったことが徳政一揆を生み出したと考えられています。
このような農民による実力行使は、地方の豪族である国人や、惣村の有力者である農民が守護大名などと主従関係を結んで武士の身分を得た地侍(じざむらい)らによって指導され、これらは結果として荘園領主や地頭などによる領主支配の困難化を招きました。時が経つにつれてその勢力を伸ばした惣村は、やがて領主を異にする周辺同士の連合を生み出し、大きな力となって領主や中央政府に向かって牙(きば)をむき始めました。
正長(しょうちょう)元(1428)年、京都に押し寄せた近江(おうみ、現在の滋賀県)の馬借(ばしゃく)に農民が加わって、集団で畿内一帯の酒屋(さかや)や土倉(どそう)を襲って質物(しちもつ)を奪い、貸借や売買の証文を破り捨てて、徳政令と同様の効果をもたらしました。これを私徳政(しとくせい)といい、この出来事を「正長の土一揆(正長の徳政一揆)」といいます。
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足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)」では、数万人が京都を占拠して将軍の「代始めの徳政」を要求しました。
それまで正式な徳政令を拒否し続けた幕府がついに折れて徳政令を発布(はっぷ)すると、味をしめた土一揆がその後も頻繁(ひんぱん)に蜂起(ほうき)して徳政令を要求し、幕府もその度に応じ続けるようになりました。
なお、幕府による徳政令の中には債務額(あるいは債権額)の5分の1もしくは10分の1にあたる分一銭(ぶいちせん)と呼ばれた手数料を幕府に納めれば、債務の破棄や債権の保護を認めるという分一(ぶいち)徳政令というのもありました。
要するに徳政令を幕府財政の確保の手段として利用していることになりますが、中央政府自らが進んでこんなことをやっていては、室町幕府の権威や信頼が地に堕(お)ちるのは当たり前とも言えます。
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また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようになりました。
肥料としては、それまでの刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)に加えて、人間の排泄物(はいせつぶつ)である下肥(しもごえ)が用いられるようになり、地味(ちみ、生産力から見た土地の質のよしあしのこと)の向上や収穫の安定化をもたらしました。
手工業がこの頃までに盛んになったことから、それらの原料となる苧(からむし)や桑(くわ)・楮(こうぞ)・藍(あい)・茶などの栽培が広まりましたが、農村加工業の発達によってこれらが商品として流通するようになり、生産性の向上も相まって、農民の暮らしは豊かになりました。
暮らしが豊かになったことで生活に余裕が生まれたことから物資の需要が高まると、やがて農村にも商品経済が発達していきました。
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製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行われ、塩田(えんでん)に海水をくみ上げ、自然に蒸発させて濃縮したものを煮つめる揚浜(あげはま)や、伊勢(いせ、現在の三重県北中部など)地方などで潮の満ち引きを利用して海水を導入する古式入浜(こしきいりはま、後の入浜塩田=いりはまえんでん)が行われました。
鍛冶(かじ)では刀剣や農具の製作が盛んとなり、特に刀剣は武士の必需品となった他に日明貿易の主要な輸出品として、備前(びぜん、現在の岡山県東南部など)や山城(やましろ、現在の京都府南部)、大和(やまと、現在の奈良県)などで多数がつくられました。
手工業の同業者組合である座(ざ)もその種類や数を増やして各地域に広まり、なかには朝廷や大寺社の権威のもとで、通行税である関銭の免除や広範囲における独占的販売権を認められ、全国的な商売を展開した座もありましたが、その一方で座に加わらない新興商人も現れ、やがて座と対立するようになりました。
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また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。
この他、京都や奈良・鎌倉などの大都市では見世棚(みせだな、別名を店棚)と呼ばれた常設の小売店舗(こうりてんぽ)が一般化するようになりました。
さらには商品の取引量の増加によって、京都の米場(こめば)や淀(よど)の魚市(うおいち)のように、特定の商品だけを扱う市場も現れました。
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また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。
その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引に当たって悪銭(あくせん)を選び捨てて良質の貨幣のみを求める撰銭(えりぜに、または「せんせん」)が行われました。
これを受けて、幕府や大名などは良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して、銭の円滑な流通を目指しました。
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なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質入れされた品物を保管するために、土塗(つちぬ)りの壁で周りを囲った倉庫である土蔵(どぞう)を建てたことに由来します。
商業流通の活発化によって、物資を輸送するための海や川、あるいは陸における交通手段も発達しました。水上の輸送では廻船業者が活躍したほか、交通の要地には鎌倉時代の問丸(といまる)から発達した問屋(といや)が置かれ、多くの地方都市の繁栄をもたらしました。この他にも、多数の物資を運ぶために京都の輸送路を中心に各地で馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)などの運送業者が活躍しました。
なお、馬借とは馬の背に荷物を載せて運ぶ輸送業者のことであり、水陸交通の要地や主要街道沿(ぞ)いの町に集団で住み、船で運ばれたものを京都や奈良などに運び込んでいました。また、車借とは牛(もしくは馬)に車を引かせて荷物を運ぶ輸送業者のことです。
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一方、南北朝の動乱の頃には、西国の武士や漁民らによって武装した船団が組まれ、朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲(おそ)うようになりました。これらの海賊(かいぞく)は「倭寇(わこう)」と呼ばれ、沿岸住民から恐れられました。
ところで、倭寇は襲来(しゅうらい)の時期によって大きく二つに分かれます。南北朝時代の頃を中心とする「前期倭寇」は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)や壱岐(いき、現在の長崎県壱岐市)、あるいは肥前(ひぜん、ここでは長崎県)の松浦(まつら)地方を拠点とし、日本人を中心に構成されていました。
これに対して、15世紀後半から16世紀にかけての「後期倭寇」は肥前の平戸(ひらど)や五島(ごとう)を拠点としているものの、その大部分は中国人であり、大陸沿海での密貿易を主に行っていました。なお後期倭寇は、我が国を統一しつつあった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天正(てんしょう)16(1588)年に海賊取締令を出して厳しく対処したことで鎮圧されています。
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こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両国が照合することで私貿易と区別していたので、別名を「勘合貿易」とも呼ばれています。
日明貿易は、朝貢形式を嫌った4代将軍の足利義持(あしかがよしもち)によって応永(おうえい)18(1411)年に一旦は中断されましたが、幕府の財源確保を優先した6代将軍の足利義教によって永享(えいきょう)4(1432)年に再開されました。
日明貿易は聖徳太子(しょうとくたいし)以来の自主独立の外交路線に反した朝貢貿易でしたが、宗主国の立場である明が滞在費(たいざいひ)や運搬費(うんぱんひ)などのすべての費用を負担したので、我が国は大きな利益を得ることができました。
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しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」は、朝貢貿易での下賜(かし)を目的として鋳造(ちゅうぞう)されたものであり、それを日本国内で流通させることは、いかに形式的とはいえ、我が国が経済的にチャイナの傘下(さんか)に入ったことを意味していました。我が国が独自につくった銅銭は、江戸時代の「寛永通宝(かんえいつうほう)」まで待つことになります。
さて、室町幕府が衰え始めた15世紀後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川(ほそかわ)氏と、博多の商人と結んだ大内(おおうち)氏の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、大永(だいえい)3(1523)年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突しました。この争いを「寧波の乱」といいます。
両者の戦いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、天文(てんぶん)20(1551)年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となり、先述した後期倭寇の活動が目立つようになりました。
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我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は嘉吉(かきつ)3(1443)年に嘉吉条約(別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで対馬の宗(そう)氏に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために「李氏(りし)朝鮮」とも呼ばれています。
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日朝貿易は、応永26(1419)年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永の外寇(がいこう)」によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合をまねた「通信符(つうしんふ)」が用いられ、我が国からは銅や硫黄などの鉱産物や工芸品、あるいは後述する琉球(りゅうきゅう)貿易で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦(さんぽ)に住む日本人と現地の役人との間で永正(えいしょう)7(1510)年に紛争が起きました。この「三浦の乱」によって、日朝貿易は次第に衰退していきました。
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琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易といいます。琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における「中継(なかつぎ)貿易」の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、香料のこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によってチャイナや朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
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やがて奥州の住人の中から蝦夷ヶ島(えぞがしま)と呼ばれた北海道の南部に進出し、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤(あんどう)氏(別名を安東氏)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は、次第にアイヌとの関係悪化をもたらしました。
アイヌは長禄(ちょうろく)元(1457)年に首長(しゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎(かきざき)氏によって鎮圧されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前(まつまえ)氏を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市にある志苔館(しのりたて)が有名です。また、志苔館の付近からは当時の経済的繁栄を裏付ける大量の古銭が発見されています。
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これらの文化の大きな特徴として、それまで東国を中心に栄えていた武家文化が、室町幕府が京都に置かれたことで公家(くげ)文化と融合したほか、我が国の伝統的な文化が、明や朝鮮など東アジアとの活発な交流に伴って大陸文化と融合したことが挙げられます。
さらには、それまで都市の民衆が支えてきた中央の文化が、各地の惣村(そうそん)との交流によって地方文化とも融合して洗練あるいは調和されていくことで、次第に我が国固有の文化が生み出されていったという一面がありました。
能(のう)・狂言(きょうげん)・茶の湯・生花(いけばな)などは現代にも伝わる我が国の伝統文化として知られていますが、これらはいずれも室町文化の頃にその基盤(きばん)が確立されており、中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されたものです。
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