後醍醐(ごだいご)天皇の信任が厚かった南朝の公卿(くぎょう)の北畠親房(きたばたけちかふさ)は、伊勢神道(いせしんとう)の理論を背景として、南朝の立場から我が国の長い歴史を通じて皇位が継承されてきたことを説いた「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を著し、後世に大きな影響を与えました。
この他の歴史書としては、源平以後の争乱の歴史を公家の立場からまとめた「増鏡(ますかがみ)」や、南北朝の動乱を北朝側たる足利氏の立場から記した「梅松論(ばいしょうろん)」などがあります。また、軍記物語として代表的なものに後醍醐天皇の治世からの半世紀を力強く描いた「太平記(たいへいき)」が挙げられますが、これは後に台本として講釈された「太平記読み」という手段で広く人々に普及し、後世まで語り継がれました。
なお、増鏡は「大鏡(おおかがみ)」「今鏡(いまかがみ)」「水鏡(みずかがみ)」とともに、いわゆる「大今水増(だいこんみずまし)」の「四鏡(しきょう)」として日本史のみならず古典の学習でも重要ですね。
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南北朝時代の頃までには、和歌における「五・七・五・七・七」の韻律(いんりつ)を基盤として複数の作者が連作する形式でつくられた「連歌(れんが)」が、武家や公家を問わず広く親しまれるようになりました。
連歌は、南北朝時代の公卿で摂政や関白を歴任した二条良基(にじょうよしもと)がまとめた「莬玖波集(つくばしゅう)」が勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編集すること)に準ぜられたことで、和歌と対等の地位を築くことになりました。なお、二条良基は連歌の規則書として「応安新式(おうあんしんしき)」を制定しています。
また、鎌倉時代に僧の栄西(えいさい)が伝えたとされる喫茶(きっさ)の習慣が広まったことで、南北朝時代の頃には茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊びである闘茶(とうちゃ)などの茶寄合(ちゃよりあい)が各地で行われるようになりましたが、これらの流行は南北朝時代の新興武士団たちの新しもの好きの精神に基づくものであり、彼らは派手や贅沢(ぜいたく)を意味する「バサラ」と呼ばれました。
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鎌倉時代に栄西によって武家社会の上層に広まった臨済宗(りんざいしゅう)は、夢窓疎石(むそうそせき)が初代将軍の足利尊氏の厚い保護を受けたことによって大いに栄え、義満の時代までに南宋(なんそう)の官寺(かんじ)制度にならった「五山(ござん)・十刹(じっせつ)の制」が完成しました。
具体的には、まず南禅寺(なんぜんじ)を別格として五山の上に置き、その下に京都五山として天龍寺(てんりゅうじ)・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺(けんにんじ)・東福寺(とうふくじ)・万寿寺(まんじゅじ)の五寺が、鎌倉五山として建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)・寿福寺(じゅふくじ)・浄智寺(じょうちじ)・浄妙寺(じょうみょうじ)の五寺がそれぞれ置かれており、この格式は現代においても続いています。
なお、十刹とは五山に続く官寺であり、さらにその下には諸山(しょざん)と呼ばれる寺格(じかく)がありました。室町幕府は僧録(そうろく)を置いてこれらの官寺を管理するとともに、住職の任免を行いました。
ちなみに、金閣は義満の死後に臨済宗の鹿苑寺(ろくおんじ)という寺院となり、大東亜戦争(=太平洋戦争)後の昭和25(1950)年に放火で焼失しましたがその後再建され、平成6(1994)年にはユネスコの世界文化遺産として登録されています。
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また、宋からもたらされた木版(もくはん)に文章や絵を彫(ほ)って版をつくる木版技術によって禅の経典や漢詩文集などが印刷され、これらは「五山版(ござんばん)」として広まりました。
この他、五山の禅僧である明兆(みんちょう)や如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)らによって墨の濃淡(のうたん)で自然や人物を表現し、簡潔で力強い筆致(ひっち、筆づかいのこと)によって禅の精神を具体化した「水墨画(すいぼくが)」が広く伝えられました。
北山文化の頃の代表的な水墨画としては、ぬめった皮膚(ひふ)のナマズを滑(なめ)らかなヒョウタンでいかに押さえるか、という現実には不可能に近い「ヒョウタンナマズ」の禅問答のテーマを如拙が描いた「瓢鮎図(ひょうねんず)」が有名です。
ちなみに、禅問答すなわち公案(こうあん)問答を繰り返しながら悟りを開くのが臨済宗の大きな特色でしたね。こんなところにも歴史の流れがつながっているのです。
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能の発達は、やがて寺社の保護を受けて専門的に能を演じる能楽師(のうがくし)を生み出し、興福寺(こうふくじ)などを本所とした観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう)の大和猿楽四座(やまとさるがくしざ)を中心に、能は各地で盛んに興行されるようになりました。
なかでも観世座の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子は3代将軍足利義満の厚い保護を受けたことで、洗練された芸の美を追求した気品あふれる猿楽能(さるがくのう)をつくり上げ、能の脚本である謡曲(ようきょく)を数多く残しました。
また、世阿弥は能楽の芸術論であり、能の真髄(しんずい)を述べた「風姿花伝(ふうしかでん)」を著しています。
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現在は慈照寺(じしょうじ)として知られる銀閣は、書院造(しょいんづくり)と禅宗様の仏殿(ぶつでん)から成り立っており、当時の文化を象徴する建築であることから、この時代の文化は「東山文化」と呼ばれています。
銀閣の下層や東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)に見られる書院造はそれまでの寝殿造を母体として、畳(たたみ)を敷(し)いた部屋の境(さかい)を襖障子(ふすましょうじ)で仕切り、床の間や違棚(ちがいだな)、あるいは付書院(つけしょいん)などを設けて、明障子(あかりしょうじ)を用いるなどの特徴があり、近代の和風住宅の原型となりました。
この頃には造園の方式も発達して、龍安寺(りょうあんじ)や大徳寺大仙院(だいとくじだいせんいん)などの庭園における、岩石や砂利(じゃり)を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した「枯山水(かれさんすい)」が有名です。
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絵画では、北山文化で発達した水墨画が、この頃に活躍した僧の雪舟(せっしゅう)が日本的な水墨画様式を創造して全盛期を迎えました。また大和絵(やまとえ)では応仁の乱後に土佐光信(とさみつのぶ)が出て土佐派を再興したほか、狩野正信(かのうまさのぶ)・元信(もとのぶ)父子が水墨画と大和絵とを巧(たく)みに融合した狩野派を新たに興(おこ)しました。
雪舟の代表的な作品には「秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)」がありますが、子供の頃に叱られて流した涙でネズミの絵を描いたという伝説のほうが有名かもしれませんね。また、京都の大徳寺大仙院花鳥図(だいとくじだいせんいんかちょうず)」は狩野元信の作と伝えられています。
彫刻では、仏像彫刻が衰える一方で能の隆盛に伴って能面(のうめん)の製作が発展し、工芸では金工(きんこう、金属に細工をする工芸のこと)の後藤祐乗(ごとうゆうじょう)が名作を残したほか、漆工(しっこう、うるし細工のこと)の技術が進んだことで精巧な蒔絵(まきえ)もつくられるようになりました。
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茶の湯では、奈良の村田珠光(むらたじゅこう)が質素な茶室で心の平静を求めるという茶と禅による精神の統一を主張した侘茶(わびちゃ)を始めました。この後、侘茶は堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)が発展させ、千利休(せんのりきゅう)によって完成されることになります。
また、生花も座敷の床の間を飾る立花(りっか、または「たてはな」)形式が定着したことで、飾られた花そのものを鑑賞するかたちがつくられていきました。立花の名手としては小野妹子(おののいもこ)の末裔(まつえい)とされる池坊専慶(いけのぼうせんけい)が知られており、現代の華道の家元(いえもと)である池坊につながっています。
一方、この頃の公家の間では、政治や経済面での実権を失ったことで伝統的な文化の担(にな)い手として有職故実(ゆうそくこじつ、朝廷の儀式や先例など)の学問や古典の研究に力を入れるようになり、一条兼良(いちじょうかねよし、または「かねら」)らが「樵談治要(しょうだんちよう)」など多くの研究書や注釈書を残しました。
また、京都の吉田神社の吉田兼倶(よしだかねとも)は、仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ、別名を反本地垂迹説=はんほんじすいじゃくせつ)を主張して、神道(しんとう)を中心に儒学や仏教を統合しようとする唯一神道(ゆいいつしんとう、別名を吉田神道=よしだしんとう)を始めました。
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当初は3代将軍足利義満の保護を受けるなど上流社会に愛好された能も、時が経つにつれてより素朴(そぼく)で娯楽性(ごらくせい)が強いものが各地の祭礼などで演じられるようになりました。
能の合間(あいま)に演じられた「狂言(きょうげん)」は、その題材が当時の大名から庶民に至るまで幅広い層の生活を題材として、科白(せりふ)も日常の会話が取り入れられたことで大いにもてはやされました。
ちなみに狂言を職業的に演ずる人々を狂言師(きょうげんし)といいますが、現代では野村萬斎(のむらまんさい)さんが有名ですね。
なお、この時代に狂言以外で庶民に愛好された芸能としては、幸若舞(こうわかまい)や古浄瑠璃(こじょうるり)・小歌(こうた)などがあり、小歌の歌詞を収録した「閑吟集(かんぎんしゅう)」が知られています。
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連歌は、これを職業とする連歌師(れんがし)によって各地の武士や庶民に広められましたが、時が経つにつれて新鮮さが失われ、形式化していきました。これに対し、山崎宗鑑(やまざきそうかん)はより自由で俗っぽい気風を持つ俳諧連歌(はいかいれんが)をつくり出して「犬筑波集(いぬつくばしゅう)」を編集しました。
また、この頃までに絵の入った短編の物語である「御伽草子(おとぎそうし)」が成立して、一寸法師や浦島太郎など、後世にまで愛された庶民の様々な夢や教訓が語られました。
この他にも、民衆の芸能として華やかな姿で踊る風流が祭礼や正月・盆などに行われていましたが、この風流がやがて念仏踊りと結びついて「盆踊り」として定着しました。
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なかでも日明貿易で莫大(ばくだい)な利益を上げていた周防(すおう、現在の山口県東部)の大内氏が有名であり、本拠地の山口では儒学や和歌などの古典の講義が行われたり、書籍の出版がなされたりするなど、さながら京都の文化がそのまま移動してきたかのような繁栄ぶりでした。
その他にも、九州では五山僧(ござんそう)のひとりである桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)が肥後(ひご、現在の熊本県)の菊池(きくち)氏や薩摩(さつま、現在の鹿児島県西部)の島津(しまづ)氏に招かれて朱子学(しゅしがく)の講義を行い、後の薩南学派(さつなんがくは)の基礎となりました。また、土佐(とさ、現在の高知県)で朱子学を講じた南村梅軒(みなみむらばいけん)は、後の南学(なんがく、別名を海南学派=かいなんがくは)の祖となりました。
関東では15世紀中頃に関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)によって「足利学校(あしかががっこう)」が再興され、全国から多くの禅僧や武士などの学徒を集めて高度な教育がなされたり、多数の書籍の収集が行われたりしました。
一方、この頃までには地方の武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせる習慣ができており、鎌倉時代の武家法である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」や、生活全般の心得が記された「庭訓往来(ていきんおうらい)」などが教科書として用いられました。また、教育への関心は庶民の間でも高くなり、読み・書き・計算を学ぶとともに辞書である「節用集(せつようしゅう)」も刊行されました。
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これに対して、より自由な活動を求めて地方への布教を目指した禅宗諸派が、地方の武士や庶民の支持を受けて各地に広がっていきました。
禅宗諸派は「叢林(そうりん)」と呼ばれた五山に対して「林下(りんか)」と称され、京都の臨済宗の寺院である大徳寺(だいとくじ)や妙心寺(みょうしんじ)が、地方では曹洞宗(そうとうしゅう)系の永平寺(えいへいじ)や総持寺(そうじじ)が有名です。
ところで、皆さんは「とんち」で有名な「一休さん」をご存知でしょうか。
一休さんの本名は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)ですが、実は大徳寺の住職にまで出世した高僧でもあります。
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本願寺(ほんがんじ)の蓮如(れんにょ、別名を兼寿=けんじゅ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを信じれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)できる」という教えを「御文(おふみ)」と呼ばれた平易な文章で説いて、各地で「講(こう)」を組織しました。
惣村などへの精力的な布教活動によって、本願寺の組織は北陸・近畿・東海地方に広がり、各地域で組織化された門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の集団はやがて強大となり、農村への支配を強めようとした大名などと対立するようになりました。
門徒たちは各地で一向一揆(いっこういっき)を起こし、なかには先述した長享(ちょうきょう)2(1488)年の加賀の一向一揆のように、約1世紀にわたって勢力を保つものも現れました。
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日親が6代将軍の足利義教の前で説法(せっぽう)した際には、激怒した義教に煮えたぎった熱い鍋を頭からかぶせられたという伝説が残っています。
京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、他の宗派と激しく勢力争いをするようになりました。天文(てんぶん)元(1532)年には「法華一揆(ほっけいっき)」を結んで一向一揆と対決し、山科(やましな)の本願寺を滅ぼして町政を自治的に運営しました。
しかし、その自治は長くは続かず、天文5(1536)年に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と衝突すると、今度は逆に京都を追われてしまいました。この戦いを「天文法華の乱」といいますが、延暦寺の僧兵によって焼打ちされた京都の被害は、あの応仁の乱を上回るものであったと伝えられています。
ちなみに、法華一揆の際に山科を追われた本願寺は本拠地を大坂(おおさか、現在の大阪)の石山(いしやま)に移しましたが、法華一揆の反省から防御力を高めた石山本願寺は城のような堅固(けんご)な要塞(ようさい)と化し、戦国大名と並ぶ大きな勢力を築き上げることになります。
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ところで、この当時の一向宗や日蓮宗、さらには比叡山延暦寺の天台宗(てんだいしゅう)といった宗教勢力同士の争いの背景には、布教地における莫大な利権がありました。宗教勢力は、布教地の要所ごとに関所を置いて通行税を徴収したり、あるいは布教地に座(ざ)を設けて、商売を許可するために税金を集めたりしていました。
これらの利権を維持するため、各宗教勢力は僧兵などの兵力を有していましたが、こうした軍事力の強化は必然的に多額の資金力を必要とするため、宗教勢力が布教地に対する税を増やして利益を上げると、今度はその利権を守るために武力を強化するようになる。この繰り返しによって、いつしか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体と化していったのです。
そんな宗教勢力にとって、応仁の乱などの相次ぐ戦乱でかつての勢いは失われつつあったものの、我が国の首都であり、人も物資も集まりやすかった京都こそが最大の「おいしい」布教地だったのですが、そう考えていたのはいずれも同じでした。
それゆえに、京都のような有力都市では宗教勢力による争いが絶えず、巻き込まれて苦しんだ民衆からは、人々の暮らしに大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいという声が自然と高まっていきました。
まさに世は戦国時代であり、こうした民衆の声なき声をくみ取った一人の武将によって、やがて時代は大きく動くことになりました。その名を「織田信長」といいます。
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