日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統領とは旧知の間柄であり、少しでも交渉に有利になるようにという願いが込められていました。
交渉は野村大使とアメリカのハル国務長官との間で続けられましたが、松岡洋右外務大臣が日ソ中立条約を結ぶなど事態が複雑化し、交渉は容易にまとまりそうもありませんでした。このため、近衛首相は日米交渉の障害になると思われた松岡外相を除くために一旦内閣を総辞職し、昭和16(1941)年7月に第三次内閣を組織しました。
なお、松岡外相は確かに対米強硬派でしたが、同時に熱心な「北進論」者でもあり、自ら結んだ日ソ中立条約を破棄してでも日独伊三国同盟を優先し、ドイツと一緒に東西からソ連を挟撃(きょうげき)すべきだと主張していた人物でした。
松岡が外務大臣を辞めさせられたという事実は、我が国が北進論を取りやめ、英米との対決も辞さない南進論へと国論が大きく傾いたことを意味していたのです。
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このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印はタイやイギリスの植民地あるいは蘭印と接近する要地であり、英米よりも先に進駐することで、我が国が南部で資源を獲得する望みをつなごうと考えられていたからです。
当時のフランスはドイツの激しい攻撃によって北半分が占領され、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が成立していました。我が国はヴィシー政権をフランスの正式な窓口として交渉を続け、最終的に合意したことで、第三次近衛文麿内閣が誕生した直後(つまり、北進論者の松岡洋右が外務大臣を追われてすぐ)の昭和16(1941)年7月28日に、日本軍が「南部仏印進駐」を開始しました。
以上のように、南部仏印進駐は先に行われた北部仏印進駐と同様に、当時のフランス政府との間で決められた合法的なものであったのですが、このことがヴィシー政権を認めていなかったアメリカによる「我が国へのさらなる報復措置」を生んでしまったのです。
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一方、南部仏印を含む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。北進論を断念した我が国にとって、南部仏印が英米に占領される前に自国の軍隊を進駐させ、ゴムやコメの供給地を確保するという手段は、当時の国際通念上に照らしても当然の自衛行為であり、またフランス政府との交渉の末に実現した合法的なものでした。
にもかかわらず、日本軍の進駐で自国の植民地支配に危機が生じると判断したアメリカは、イギリスに亡命していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であると主張して、我が国の南部仏印進駐を非難したばかりか、直後の8月1日に、在米日本人の資産凍結や石油を含む主要物資の対日輸出全面禁止などという措置をとりました。
言うまでもないことですが、20世紀の国家が石油なくして存在できるはずがありません。それなのに石油を我が国に一滴たりとも「売らない」というアメリカの行為は、我が国に「死ね」と言っているに等しい暴挙でした。
なお、1928(昭和3)年にパリ不戦条約が結ばれた際、条約批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)の是非をめぐってアメリカ上院議会で討議が行われた際に、当時のケロッグ国務長官が「経済封鎖は戦争行為そのものである」と断言しています。彼の言葉を借りれば、アメリカによる石油禁輸こそが「我が国に対する先制攻撃」だとは言えないでしょうか。
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憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序の構想を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳が対日戦争に関する協議を行ったといえました。
一方、石油禁輸で追いつめられた我が国は、昭和16(1941)年9月6日に昭和天皇ご臨席のもとで御前会議を開いて「帝国国策遂行要領」を決定し、対米交渉がまとまらなかった場合には、10月下旬を目安としてアジアに植民地を持つアメリカやイギリス・オランダに対する開戦方針が定められました。
なお、この会議において、戦争ではなくあくまで外交的な解決を望まれた昭和天皇は、明治天皇がお詠(よ)みになられた御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をご披露(ひろう)されておられます。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」
(※はらから=兄弟姉妹のこと)
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ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずかな、それもはるか彼方(かなた)で起こった小さな出来事によって、それまでの常識が根底から覆(くつがえ)されてしまうことが日常茶飯事です。
鎖国の状態が長く続いて平和ボケしていた我が国が幕末に無理やり開国させられ、欧米列強から不平等条約を押し付けられたことは大きな屈辱(くつじょく)でしたが、我が国はその悔しさをバネとして、血のにじむような努力によって近代化を成し遂(と)げ、開国からわずか半世紀で世界の一等国にまで成長しました。
短期間で急成長した我が国を支えたものは何だったのでしょうか。無論、そこには三国干渉の際に見られたような「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をはじめとする精神論もあったでしょうが、何よりも重要だったのは「世界の中の日本の位置付けを正確に分析し、我が国の発展のためにあらゆる知恵を絞る」という地道な努力でした。
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それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦(いくさ)上手だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで200年以上の長きにわたる平和を築き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。
また、開国など様々な影響を受けた幕末の混乱期においても、幕府や薩長、あるいは朝廷などの内部で様々な人物が蠢(うごめ)き合い、血で血を洗う国内での勢力争いを繰り広げる一方で、日本の植民地化を狙(ねら)った外国による過度の干渉を防ぎきったことにより、明治新政権を誕生させることに成功しました。
さらには明治期においても、超大国だったロシアを内部から崩壊(ほうかい)させるべく、明石元二郎(あかしもとじろう)が革命の裏工作を行ったことなどによって日露戦争を勝利に導くなど、我が国には生き残りのために様々な工作や謀略を駆使してきたという「もう一つの歴史」が存在していたのです。
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戦国時代や幕末あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。
その理由として考えられることは、そうした先人の智慧(ちえ)を活用するだけの器量や度量を当時の指導者が持ち合わせていなかったのではないかということであり、もっと厳しい言い方をすれば「当時の指導者たちは表向き優秀であっても、百戦錬磨(ひゃくせんれんま)の先人たちに比べればはるかに劣(おと)っていた」という見解が成立します。
また、そうなってしまった流れとして、現場での経験よりも筆記試験を中心とした「机上の考え」が優先される傾向があり、これは現代においても全く変わっていません。
先人の経験を日本民族の智慧として生かせなかった理由は何であったのかということは、現代の私たちにも突き付けられている重要な課題ではないでしょうか。
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ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐(じぎゃく)史観」と表裏一体をなすものでしかありません。
我が国は最終的にアメリカと大東亜戦争を戦うことになりましたが、実はソ連と戦争する可能性もあったことをご存知でしょうか。その分水嶺(ぶんすいれい)となったのは「北進論」と「南進論」の選択であり、またその決め手となったのが「ソ連によるコミンテルンの謀略」でした。
当時の軍部や国民から多くの期待を背負って誕生した近衛内閣でしたが、国家総動員法など国家社会主義に基づく様々な施策(しさく)を行って国民への統制を強めた一方で、外交面においては南進論を押し進めて日米交渉を暗礁に乗り上げさせたのみならず、対米開戦を行うかどうかという重要な政治的判断を行うこともなく、最終的に「政権を投げ出す」という無責任な形で内閣総辞職となったのです。
第三次近衛内閣の後任には陸軍大臣だった東條英機が首相に選ばれました。この背景には、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるためにはそのトップたる東條こそがふさわしく、また東條自身が天皇のご意向を絶対視する人物であったことから、昭和天皇が願っておられた戦争回避に最も有効であろうという思惑があったとされています。
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昭和16(1941)年秋、特別高等警察(=特高)はソ連のスパイ組織が日本国内で諜報(ちょうほう)並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実(おざきほつみ)らを逮捕しました。ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(たく)みに様々な情報をスパイ活動によって入手するようになりました。また、近衛文麿のブレーンとして活躍した尾崎秀実とも親しくなり、両者は連携してソ連(=コミンテルン)のスパイとして暗躍するようになりました。
我が国が日華事変の泥沼化や対米交渉の行きづまりなどによって北進か南進かの決断を迫られた際にも、ゾルゲと尾崎は協力して南進へと国論を傾けさせ、北進によってソ連がドイツと我が国によって東西から挟撃されるという事態を防ぐなど、我が国の重要な政治的あるいは外交的決断の多くに関わったと考えられており、その影響は極めて大きかったと言わざるを得ません。
なお、尾崎は昭和16(1941)年10月14日に、ゾルゲは同月18日にそれぞれ逮捕され、二人とも後に死刑に処されていますが、二人の逮捕が第三次近衛内閣の総辞職(10月18日)とほとんど同じ時期であることは単なる偶然なのでしょうか。
諜報活動が明らかになった場合、その当事者、すなわちスパイにすべての責任を被(かぶ)せてしまうことは歴史上よくある話で、実際には当時の国民が知っていた事件の内容よりもはるかに大がかりなものであったのは間違いないことですが、いずれにせよ、ゾルゲ事件の発覚が東條内閣の成立時と重なっていたということが、その後の外交交渉が極めて難しいものであることを暗示していたと言えるでしょう。
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