阿部内閣はアメリカとの関係改善をめざして交渉を続けましたが、すでに対日戦略を着実に固めつつあったアメリカは、日本軍の軍事行動の拡大や東亜新秩序の声明あるいは日本軍が天津(てんしん)の英仏租界(そかい、外国人居留地のこと)を封鎖したことを理由に態度を硬化させ、関係を改善するどころか、昭和14(1939)年に日米通商航海条約を延長しないことを我が国に通告してきました。
しかしながら、日本軍の軍事行動が拡大したのは日華事変の泥沼化(どろぬまか)やノモンハン事件に代表される対ソ連(現在のロシア)戦など、侵略よりもむしろ自衛を目的とする戦闘行為によるものでしたし、また東亜新秩序の声明も、日華事変解決を目的として国民政府に容共抗日策(ようきょうこうにちさく、中国共産党と結んで我が国に対抗する政策のこと)を捨てて我が国と連携(れんけい)するよう呼びかけただけでした。
さらに付け加えれば、天津における英仏租界の封鎖もイギリスの租界に逃げ込んだ殺人犯の引き渡しを当事者のイギリスが拒否したのが原因であり、いずれも我が国だけに一方的な非があるとは言いがたいものがあったにもかかわらず、日英間で協定が結ばれたのを不服としたアメリカが、その直後にいきなり条約の破棄を通告してきたというのが真相だったのです。
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我が国がアメリカから理不尽ともいえる仕打ちを受けていた頃、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹の勢いで緒戦を制し、大いなる強さを世界に見せつけていましたが、その姿を見たことで「ドイツと同盟を結んでおけば日本も安泰だ」という気運が我が国で自然と高まりました。
やがて我が国では「バスに乗り遅れるな」というスローガンが流行して、ドイツとの同盟を朝日新聞などのマスコミも大々的にキャンペーンするようになりましたが、こうした動きの中で、それまで対ソ連など北方の脅威(きょうい)に対処するために「北進論」を唱えていた陸軍も、ドイツの攻勢に引きずられるかたちで、次第に「南進論」へと傾くようになりました。
南進論とは「東南アジアに進出して資源を確保しようとする」考え方でしたが、そこにはイギリスやアメリカ・オランダ・フランスが植民地を持っており、いずれ各国と衝突するのは必至でした。しかし、それをも覚悟の上でドイツと同盟を結ぼうという考えが陸軍を中心に強まっていったのです。
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米内にかわって内閣を組織したのは、元枢密院(すうみついん)議長の近衛文麿(このえふみまろ)でした(第二次)。第二次近衛内閣は組閣直後に基本国策要綱を閣議決定し、欧米列強がアジアに持っていた植民地を開放して日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」の構想を発表しました。
そして昭和15(1940)年9月には、第二次近衛内閣の外務大臣であった松岡洋右(まつおかようすけ)や陸軍の熱心な推進もあって、昭和11(1936)年に締結した日独防共協定を発展するかたちでドイツやイタリアと「日独伊三国同盟」を結びました。
三国同盟においては、アジアおよびヨーロッパにおける三国の指導的地位の相互確認や、ヨーロッパの戦争や日華事変に参加していない国から攻撃を受けた場合の三国の政治・経済・軍事面における相互援助などが定められました。
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ブロック経済は、アメリカやイギリスあるいはフランスなどのように広大な領土や植民地を有する「持てる国」であれば自給自足が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」であった我が国やドイツ・イタリアなどにとっては、まさに死活問題でした。
我が国が外交関係によって正式な権益を得た満州(現在の中国東北部)を基本として海外に進出したのに対し、ドイツやイタリアは戦争によって領土を奪うという手段の違いはあったものの、いずれもブロック経済を乗り切って自給自足をめざすという目的が存在していました。
要するに「持てる国」の囲い込みに対して「持たざる国」が生き残りをかけて結びついたのが三国同盟であったともいえるわけですが、この同盟は我が国にとって「百害あって一利なし」という結果となってしまったのです。なぜそう言い切れるのでしょうか。
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松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目論見(もくろみ)が外れてしまいました。
また、三国同盟を結んだといっても、遠く離れたドイツやイタリアが我が国の危機に際して援軍をすぐに送ってくれる可能性は低かったですし、何よりも三国同盟を口実にアメリカが我が国に対して態度をさらに硬化させ、後述するような報復ともいえる措置(そち)を次々と行うようになるのです。
さらに付け加えれば、同盟締結時は破竹の勢いだったドイツがやがて劣勢(れっせい)に転じたことで、そんなドイツと同盟を結んでしまっていた我が国がますます不利になっていくのは避けようもない流れとなってしまいました。
要するに、我が国は第二次世界大戦の開戦直後にドイツが見せた強さに驚くあまり、その行く末を見誤ったのです。もし我が国が当時の世界各国の本当の情勢を的確につかんでいればと悔やまれてなりません。
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我が国は蒋介石への援助を断ち切るためチャイナの沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼んでいました。
援蒋ルートの主なものには仏印(ふついん、フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)ルートやビルマルート・西北ルート・南支ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量を占めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為を禁止するよう申し入れましたが、フランス政府は容易に承諾しようとしませんでした。しかし、1940(昭和15)年にフランスがドイツに降伏すると仏印ルートの封鎖を認めるようになり、2か月に及ぶ外交交渉の末に協定が成立し、これに基づいて我が国は日本軍を仏印に進駐させました。これを「北部仏印進駐」といいます。
我が国による北部仏印進駐は、ドイツに降伏した後のフランス政府であるヴィシー政権との間に結ばれた合法的なものでしたが、我が国に対する態度を硬化させていたアメリカはこれに反発し、イギリスに亡命していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であるという口実で、我が国に対するくず鉄・鉄鋼の輸出禁止の方針を発表しました。
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こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、共同して我が国の南方進出を抑えようとする構図が形成されました。これを「ABCDライン(またはABCD包囲網)」といいます。
ABCDラインの中心となったのはアメリカでしたが、ハリマンが提案した南満州鉄道(=満鉄)の共同経営の拒否以来、長い時間をかけて反日体制が構築されてきたとはいえ、なぜここまで強気の姿勢を崩さず、我が国を追いつめようとしたのでしょうか。
実は、この背景にはアメリカとイギリスによる「利害の一致」に基づく共同戦線があったのです。
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一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公約して三選を果たしたものの、ニューディール政策の行きづまりもあって経済が疲弊(ひへい)し、失業者が増加していました。
これらを打開するため、チャーチルとルーズベルトが手を組み、まず日本に先に攻撃させるかたちによって日米間で戦争を起こさせ、その後に日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦えるように仕向けたのではないかと考えられているのです。実際に両国は1940(昭和15)年にアメリカがイギリスに戦艦や武器弾薬を貸与するなど連携を強めており、日本と石油などの輸出入の交渉をしていたオランダにも圧力をかけるなど、真綿(まわた)で首を絞めるように我が国を追いつめていきました。
史実では後述するように昭和16(1941)年12月に日米開戦となり、アメリカは多大な犠牲を払った末に我が国を徹底的に叩き潰(つぶ)したほか、戦争による特需(とくじゅ)で経済が活性化するという効果をもたらし、イギリスもアメリカの参戦で息を吹き返して、最終的にドイツに勝利することができました。
しかし、アメリカとイギリスは、お互いに手を組むことによって「当面の敵」であった我が国やドイツを倒すことはできましたが、実はこれらは「目先の利益」でしかなく、大局的には両国とも「敗戦同様」だったという事実を皆さんはご存知でしょうか。カギを握るのは「ソ連」の存在です。
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しかし、満州を含む中国大陸では蒋介石が追われて中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国を建国し、朝鮮半島もソ連と南北に分割して、それぞれ北朝鮮(=朝鮮民主主義人民共和国)や韓国(=大韓民国)として独立させただけとなってしまいました。
一方のイギリスもインドなど植民地のほとんどを失うなど、かつての「大英帝国」が事実上解体させられてしまったのみならず、東ヨーロッパがソ連を中心とする社会主義国家で固められてしまうなど、米英ともに大戦後に得た「果実」は存在せず、それまでのドイツにかわって社会主義国家であるソ連という名のさらなる強敵をつくってしまっただけに終わったのです。
こうした結果を考慮すれば、アメリカやイギリスは「真の強敵」であったはずのソ連を見過ごした一方で「目先の敵」でしかなかった我が国やドイツを叩いてしまうという、長期的な視野に立たずに短絡的な戦略にこだわったゆえの大失敗をおかしてしまったと言えるのではないでしょうか。
そして、この「大失敗」は我が国においても例外ではなかったのです。
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しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで開かれた御前会議において、南方への進出を決定したのです。
なお、ソ連への攻撃は情勢が有利になった場合に行うこととなり、独ソ開戦後に陸軍が満州などに約70万人の兵力を集結させた「関東軍特種演習」と呼ばれた動員も8月に中止されましたが、この決定を誰よりも喜んだのが、東西の二方面から攻撃されるという危機が回避されたソ連のスターリンであったことは言うまでもありません。
かくして、アメリカを牽制(けんせい)するために我が国が結んだはずの日独伊三国同盟や日ソ中立条約は結果としてことごとく裏目に出てしまい、ソ連(=コミンテルン)のスパイであった尾崎秀実(おざきほつみ)らが強く主張していたとおりの南進論を選択してしまったことになります。
つまり、我が国はコミンテルンのスパイに操られるかたちで南進以外の選択肢を失ってしまったとも考えられるのです。そして、この選択は当然のようにアメリカを刺激し、さらなる苦難が我が国を待ち受ける事態となってしまうのでした。
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