特に鎌倉府では、応永23(1416)年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放するなどの混乱が起きましたが、翌年には鎮圧されました。この争いを「上杉禅秀の乱」といいます。
このように地方では常に不安があった一方で、幕府周辺においては将軍と有力守護大名とがお互いに権力を主張しながらにらみ合いを続けましたが、これがかえって勢力の均衡(きんこう)を生んだことによって、皮肉にも大きな争いが起きずに小康状態を保っていました。
こうした中で応永32(1425)年に5代将軍の義量が19歳の若さで急死すると、父親である義持が代わりに政務をとりましたが、応永35(1428)年までに重病となり、このままでは将軍家の嫡流(ちゃくりゅう、直系の血脈のこと)の血筋が絶えるという危機となりましたが、義持は自らが後継者を決めることをしませんでした。
なぜなら、幕府と有力守護大名との権力に大きな差がなく、将軍の権威も低下していたために、自身が誰を後継としても、守護大名などからの反発が必至と思われたために出来なかったのです。
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そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。
義満がかつて自分の権力強化のために門跡寺院に自分の子を次々と送り込んだことが、こんなところで役に立ったのです。将軍に選ばれた義円は直ちに還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)し、名を義宣(よしのぶ)から後に義教(よしのり)と改めました。
後の世で「籤引(くじび)き将軍」と呼ばれた6代将軍の足利義教の誕生です。
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まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って、宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく厳しい姿勢を崩さなかったため、絶望した延暦寺では永享(えいきょう)7(1435)年に総本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺するという騒ぎとなり、結果として、義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼打ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
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さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙兵しましたが、義教はこれらも滅ぼしました。この戦いを「結城合戦(かっせん)」といいます。
かくして、鎌倉をも自分の支配下に入れた義教の権力は絶対的なものとなり、古代の盟神探湯(くかたち、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽=しんぎを判断するという神判=しんぱんのこと)を復活させたり、些細(ささい)なことで激怒して死罪などの厳しい処断を下したりした義教に対して、周囲は「万人恐怖」と震え上がりました。
義教からしてみれば、幕府や将軍の権威を高めるための当然の行為でもあったのですが、その余りにも強引な政治手法は、必然的に守護大名などの対立する勢力の反発を招くことになりました。そして義教の恐怖政治は、かの織田信長と同じように、突然その幕を下ろす日がやってくるのです。
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嘉吉(かきつ)元(1441)年旧暦6月、義教は結城合戦の祝勝会を行うという名目で、守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれましたが、宴(うたげ)の最中に突如(とつじょ)として乱入してきた武者たちに取り押さえられ、あっという間に首をはねられました。
そのあまりの手際の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から「嘉吉の乱」もしくは「嘉吉の変」といいます。
義教の突然の最期は、幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐されましたが、義教の死によって幕府や将軍の権威は必然的に大きく低下し、この後二度と復活できませんでした。
一方、「万人恐怖」の独裁者であった義教が殺害されたことで、それまで義教の存在を目の上のたんこぶのように苦々しく思っていた守護大名たちは、胸をなでおろして安堵(あんど)しました。
しかしながら、たとえ強引な手法であったとしても、世の中をそれなりにまとめていた将軍がいなくなったことで、守護大名はおろかその下の守護代も含めて、まるで箍(たが)が外れた桶(おけ)のように各自がバラバラに行動を始めてしまい、収拾がつかなくなってしまうのです。
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