承久(じょうきゅう)3(1221)年に起きた承久の乱の後に即位された後堀河(ごほりかわ)天皇でしたが、その血統が次代の四条(しじょう)天皇が仁治(にんじ)3(1242)年に12歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されたことで途絶(とだ)えると、承久の乱の際に中立であられた土御門(つちみかど)上皇の子である後嵯峨(ごさが)天皇が鎌倉幕府によって擁立(ようりつ、もりたてて一定の地位につかせること)されました。
寛元(かんげん)4(1246)年に後嵯峨天皇が子の後深草(ごふかくさ)天皇に譲位されて院政を始められると、やがて後深草天皇の同母弟(どうぼてい、母を同じくする弟のこと)である亀山(かめやま)天皇に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁(よひと)親王を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇となられました)が文永(ぶんえい)9(1272)年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御されると、幕府は世仁親王を後宇多(ごうだ)天皇として即位させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁(ひろひと)親王に決めました。
要するに、幕府の調停によって後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
いわゆる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互いに激しく争うようになりました。
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ちなみに、天皇の追号は崩御後に決められるものですが、平安時代の醍醐(だいご)天皇による「延喜(えんぎ)の治(ち)」を理想とされた後醍醐天皇は、自らを「後醍醐」と追号されるように生前からお決めになっておられました。ご自身の理想の高さと強い決意の現れと判断すべきかもしれません。
さて、後醍醐天皇が親政を始められた頃の鎌倉幕府は、14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)による得宗専制政治が行われる一方で、分割相続などによって御家人の窮乏化(きゅうぼうか)が進んだことで、幕府に対する反発が大きくなっていました。
これを好機と思われた後醍醐天皇は討幕の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき、現在の島根県隠岐郡)へと流されました。なお、元亨(げんこう)4(1324)年に起きた一回目の討幕は「正中(しょうちゅう)の変」と呼ばれ、二回目の元徳(げんとく)3(1331)年は「元弘(げんこう)の変」と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳(こうごん)天皇を皇位に立てましたが、後醍醐天皇が退位を拒否されたため、お二人の天皇が並立されることになり、これが後の南北朝時代のきっかけとなりました。
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正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度は絶大でした。なぜなら鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻め込みながらわずかな兵の正成の軍勢に勝てないということは、それだけ幕府の威信に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。
討幕の軍勢が自然と増加していった大覚寺統の元弘3年/持明院統の正慶(しょうけい)2(1333)年、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵されました。
この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚(いんせき)関係にあった有力御家人を現地へ派遣しましたが、その御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ、後の尊氏)でした。
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高氏は他の反幕府勢力を率いて京都へ入り、大覚寺統の元弘3年/持明院統の正慶2(1333)年旧暦5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も、上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙げて鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒に鎌倉を攻めました。
旧暦5月18日には北条氏最後の執権である16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時や内管領の長崎高資らを自害に追い込んで、源頼朝(みなもとのよりとも)以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。
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