いわゆる極東に軍備を増強したソ連軍は、しきりに満州国との国境を侵犯(しんぱん)するようになり、モンゴルとの国境を含めた満ソ・満蒙(まんもう)国境では、昭和10(1935)年に136件、昭和11(1936)年に230件、昭和12(1937)年には170件の紛争が起きていました。
そんな中、満州(現在の中国東北部)・ソ連・朝鮮が国境を接する係争地帯であった朝鮮の豆満江(とまんこう)の河口に近い張鼓峰(ちょうこほう)付近で、ソ連軍が昭和13(1938)年7月に陣地を構築し始めました。日本政府はソ連に対して抗議をしたものの、対ソ開戦を恐れて武力行使を抑制しました。
我が国が攻撃してこないことに味をしめたソ連軍が張鼓峰の北方まで進出すると、日本軍は現地の司令官の独断でソ連軍を攻撃し、張鼓峰を占領しました。これを「張鼓峰事件」といいます。
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しかし、日本軍が停戦協定に応じて張鼓峰から撤退したのに対して、ソ連軍は協定を無視して張鼓峰を占領して陣地を構築し、これを強引に国境線としました。要するに、ソ連は我が国の善意を裏切ったのです。
こうしたソ連の強気の姿勢の背景には、我が国が日華事変の泥沼化の影響で満ソ・満蒙国境に大量の兵力を投入できないという事情がありました。このような歴史的な流れにも、当時の日本政府に潜んでいたコミンテルンによるスパイの暗躍ぶりがうかがえますね。
なお、張鼓峰事件において日本軍が自軍の4倍もの兵力を誇ったソ連軍を撃退したことや、事件の人的被害はソ連側の方がはるかに大きかったことなどが、旧ソ連の崩壊後に明らかとなっています。
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関東軍は外蒙古軍を撃退(げきたい)して一度は引き上げましたが、それを確認したソ連軍が機械化部隊を投入して出撃したため、関東軍とソ連軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。
この戦いで日本側は一個師団を失いましたが、ソ連軍の機械化部隊に壊滅的な打撃を与えることに成功したほか、全体的な兵力の被害もソ連軍が日本軍の倍近くありましたが、これらが明らかになったのは旧ソ連崩壊後のことでした。
では当時の戦況を我が国はどう見ていたのでしょうか。実は「日本の一方的な惨敗」と判断していたのです。
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また大敗を喫したと思い込んでしまったことが、それからの情報収集をおろそかにさせたのか、機械化部隊に壊滅的打撃を与えたソ連軍のその後の動きを我が国は察知できなかったのです。
ノモンハン事件はソ連の攻撃中止によって停戦となりましたが、その理由は機械化部隊が壊滅状態となったことに、スターリンが対日侵攻を一時は断念するほど大きなショックを受けていたからだったのに対し、我が国では後述する「ドイツのポーランド侵攻によるヨーロッパ情勢の変化」と見なしていました。
つまり、当時の我が国は、少なくとも互角以上に戦ったノモンハン事件を「一方的に負けた」と誤解していたのです。そしてこのような「間違った思い込み」が、共産主義の大国であるとともに、我が国にとって軍事的かつ思想的な脅威であったソ連に「大敗」したという「心の重荷」と化したことで、その後の我が国の戦略に大きな影を落とすことになってしまいました。
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史実においては、昭和14(1939)年9月15日に我が国はソ連軍と停戦協定を結んでいますが、実はその2日後の17日に、ソ連軍はポーランドに侵攻しているのです。つまり、我が国との停戦によって、ソ連は満州に張り付いていた師団を大急ぎでヨーロッパ戦線に向けたわけです。
ということは、もし我が国が停戦に応じていなかったら、ソ連はポーランドに攻め込むことはできなかったでしょう。ポーランドにはソ連よりも先にドイツが同年9月1日に侵攻して、第二次世界大戦が事実上勃発(ぼっぱつ)していますが、ソ連が攻め込まなければドイツが単独でポーランドを占領したかもしれません。
戦争というものは長期戦となることもあれば、緒戦の勢いですべてが決することもあります。もしドイツがポーランドを単独で占領すれば、その後の情勢が激変してドイツは戦争に負けなかったかもしれませんし、大東亜戦争(=太平洋戦争)の勝敗やその有無など、我が国のその後の運命もどうなったか全く分かりません。
しかも、ソ連はノモンハン事件の被害の大きさに狼狽(ろうばい、慌てふためくこと)するあまり、停戦協定が実際に結ばれる前に何とドイツに仲介を依頼していたのです。
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ノモンハン事件の被害の大きさにショックを受けたソ連の当時の支配者だったスターリンは、ドイツに停戦の仲介を依頼し、その流れで両国は1939(昭和14)年8月に「独ソ不可侵条約」を結びましたが、この条約には、ポーランドをドイツとソ連とで分割することや、いわゆるバルト三国をソ連が占領するのをドイツが黙認することなどが密約されていました(詳しくは後述します)。
もし我が国がソ連軍の実際の被害の大きさや独ソによる密約を諜報活動によって入手していれば、我が国が有利な立場になるまでいくらでも停戦を引き延ばすことが可能だったでしょう。しかし実際には、防共協定(=反共協定)を一緒に結んでいたはずのドイツの「裏切り」に我が国が動揺(どうよう)し、後述のように内閣交代という事態にまで及んでしまいました。
世界の動きを綺麗事だけで語ることは絶対にできません。国際社会の優等生として振る舞うだけでなく、同時に複雑怪奇な世界の情勢をしたたかに生き抜く力強さが当時の我が国にあれば、と思われてなりません(もちろん現代においても同じことが言えますが)。
なお、ノモンハン事件が起きた当時の外蒙古(=外モンゴル)では、ソ連による粛清(しゅくせい)に対する反乱が度々起きていました。もし我が国が停戦に応じずにソ連軍を撃退することができていれば、ソ連による外蒙古の支配が行きづまり、モンゴルに親日的な政権が誕生して、ソ連との国境に対する大きな牽制(けんせい)となった可能性すらあります。
国家における一つの政治的あるいは軍事的な決断が、かくのごとく世界中に大きな影響を及ぼすこともあるのです。
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