この他、戦線の拡大に伴って多くの軍事物資を輸入する必要があったことで国際収支も悪化したため、統制派を中心とする軍部の意向も受けて、日本国内の物資や資金を戦争遂行(すいこう)のために動員したり、軍需産業の育成を優先したりするために、臨時資金調整法が昭和12(1937)年9月に公布されました。
また、同年同月には、輸出入品等臨時措置(そち)法という貿易に関する物資統制法が公布され、政府が不要と判断したものは輸入を制限あるいは禁止できると規定されました。
かくして、我が国では社会主義的な経済統制が本格化したほか、多額の軍事予算を捻出するために度重なる増税や赤字国債の発行あるいは紙幣の増刷などを行ったため、インフレーションが激しくなるという結果をもたらしました。
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この他、戦時体制を乗り切るという目的のために、労使一体で国策に協力する産業報国会が昭和13(1938)年に職場単位で結成されたほか、労働組合も次第に吸収され、昭和15(1940)年には大日本産業報国会に統合されました。
また、昭和12(1937)年には第一次近衛内閣によって企画院が設置され、物資の動員計画や生産力拡充計画が次々と立案され、軍需品などが優先的に確保されるようになったほか、翌昭和13(1938)年には国家総動員法や電力国家管理法が制定されました。
国家総動員法によって、戦時における人的あるいは物的資源の統制と運用を議会の承認を受けずに行うことができるようになったほか、電力国家管理法によって国策会社による各電力会社の管理が可能となるなど、我が国における自由主義経済が完全に封じられるとともに、国家社会主義に基づいた経済統制がますます強化されるようになりました。
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第一次近衛文麿内閣の後を受けて誕生した平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣は、昭和14(1939)年7月に国家総動員法に基づいて国民徴用(ちょうよう)令を制定し、国民を徴発して軍需工場に動員することを可能としました。
国民徴用令によって多くの国民が強制的に労働に駆(か)り出された一方で、当時日本領であった朝鮮半島の人々は徴用を免除されていました。その後、戦局の悪化に伴って昭和19(1944)年9月から朝鮮の人々にも国民徴用令が適用されましたが、日本本土への徴用が行われたのは昭和20(1945)年3月までの約7か月間だけでした。
すなわち、現代の朝鮮の一部の人々などがこれまで主張してきたいわゆる「強制連行」は、当時の「日本国民全員」が等しく受けていた「徴用による労働の強制」に過ぎず、しかもその期間は一般的な日本人よりもはるかに短かったのです。なお、戦時中の朝鮮半島に関する真実については、いずれ改めて機会を設けて紹介します。
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また、同年には米穀(べいこく)配給統制法を制定して、コメの集荷機構を政府の統制下に置きましたが、その後コメの流通が滞(とどこお)り始めたのを受けて、昭和15(1940)年からはコメの強制買い上げである供出制が実施されました。
しかし、それでもコメを含む食糧の生産が低下して食糧難が深刻化したため、昭和17(1942)年に制定された食糧管理法によって、コメ以外の麦・イモなどの主要食糧全体の生産・流通・消費のすべてを政府が介入して管理するようになりました。
これらのように、政府は食糧難の解消をめざして法整備など様々な政策を行いましたが、食糧難のそもそもの原因が徴兵や徴用による農家の労働力不足や生産資材の不足にあったことや、凶作が相次いだこともあり、根本的な解決にはなり得ませんでした。
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切符制の実施により、たとえお金を持っていても切符がなければ生活必需品を購入できないという事態となりました。なお、切符制は石鹸(せっけん)やロウソク、ちり紙や靴といった様々な商品にも適用されました。
さらに翌昭和16(1941)年には米穀配給通帳制によってコメが配給制となるなど、生活必需品への統制がますます進むようになりました。
一方、国家総動員法によって集中的に対策が講じられた軍需産業でしたが、我が国は軍事物資の多くを海外に頼っており、とりわけアメリカへの依存度が高かったのですが、昭和14(1939)年7月にアメリカは日米通商航海条約廃棄を我が国に通告してきました。
条約廃棄は翌昭和15(1940)年1月から発効したため、我が国では軍需物資を含んだ資材の入手が困難となり、全体的かつ慢性的な物資不足に悩まされるようになりました。
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近衛による一連の行動の背景には、国民に基礎を置く強力な新党をつくって近衛自身が新たに内閣を組織し、既成の政党政治を打破しようという思惑がありました。また、前年に勃発した第二次世界大戦に対処するための総力戦体制を構築しようという思想も運動を後押ししました。
近衛は昭和15(1940)年7月に第二次内閣を組織した後、同年10月に新たに成立した大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の総裁に就任すると、立憲政友会や立憲民政党、あるいは無産政党の社会大衆党など多くの諸政党が次々と解散して合流しました。ただし、ドイツやイタリアのような一党独裁とは異なり、大政翼賛会が誕生しても、我が国の国会(=帝国議会)は制約こそ加えられたものの、戦時中も停止されることはありませんでした。
大政翼賛会はその下部組織として産業報国会や大日本婦人会、町内会や部落会、あるいは隣組を指導下に置いたため、国民生活全体を統制する組織として機能しました。また、昭和16(1941)年には小学校が国民学校と改称され、日本国民としての自覚や実践といった基礎的錬成(れんせい)に基づく教育が行われました。
なお、現代でもよく使用される「バスに乗り遅れるな」というスローガンは、新体制運動の際に広く使用されるようになったという説があります。
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その理由として「企画院の設立や国家総動員法の制定が主な原因だ」とも考えられそうですが、これらはどちらかと言えば「手段」であり、むしろこれらの政策が行われた「目的」を探る必要があるでしょう。
当時の我が国は、日華事変(=日中戦争)が泥沼化するなど軍事的な疲弊(ひへい)が続いていましたが、近衛文麿を中心とする当時の内閣は、これを止めるどころか「国民政府を対手(あいて)とせず」と言い放った第一次近衛声明のように、むしろ戦線を拡大しようとしました。
このような「政治的判断」に、当時の我が国が悩まされた数々の困難を読み解くヒントがあるのではないかと私は考えております。
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繰り返しますが、当時の政府の中枢(ちゅうすう)には尾崎秀実(おざきほつみ)などソ連(=コミンテルン)のスパイが堂々と存在しており、彼らの諜報(ちょうほう)活動が我が国の正常な判断力を失わせ、結果として軍事面などあらゆる国力を低下させるように仕向けたという見方が考えられないでしょうか。
世界の動きは、いつも正義や綺麗事(きれいごと)ばかりとは限りません。かつて日露戦争が行われた際にも、我が国は明石元二郎(あかしもとじろう)らにロシアで諜報活動を行わせ、革命運動を起こして政情を不安定にさせるという成果を挙げていますが、これと逆のパターンが当時の我が国で起きていたとしても決して不思議ではありません。
また、我が国の国力が疲弊することは、対日戦略を展開していたアメリカにとっても「喜ばしい」ことでした。この後昭和16(1941)年12月に日米開戦となりますが、その間アメリカはひたすら国力を温存し、資本主義的な生産を発展させたことで、戦力的に優位に立つことができたという流れもあったのです。
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国民の中には政府の施策(しさく)に疑問を持っている人も決して少なくなかったはずですが、昭和16(1941)年に行われた治安維持法の改正によって、自由主義的な思想までもが取り締まりの対象となったために、言論の自由が大きく制限されてしまったという背景も見過ごせません。
ちなみに現代においても、バブル経済の崩壊から我が国が長いあいだ経済成長がはかばかしくなかった一方で、アメリカや中華人民共和国あるいは韓国が、平成24(2012)年末に第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣が誕生するまで著しい経済成長を遂(と)げてきたという現実があります。
諜報活動を制限することや言論の自由を守ることは、国家の命運や国民の生命や財産などの死守に大きくかかわると考えた方が良いのかもしれません。
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