さて、日本軍による南京攻略と前後して、北京を中心に中華民国臨時政府が成立するなど、中国大陸の情勢は次第に我が国に有利に展開するようになりましたが、これを受けて我が国は、南京陥落(かんらく)後の昭和12(1937)年12月に、ディルクセン駐日ドイツ大使を通じて、新たな和平条件をトラウトマン駐華大使に示しました。これを「第二次トラウトマン和平工作」といいます。
我が国が示した新たな和平条件は、南京攻略の際に日本軍に多数の死傷者が出たこともあり、損害賠償の請求などの厳しい条件が追加されていましたが、そもそも第一次和平工作が成立していれば、南京戦そのものが存在しなかったのですから、ある意味当然の帰結といえました。
我が国は年末までの回答を蒋介石(しょうかいせき)に迫り、トラウトマンもそのように伝達しましたが、年が明けても国民政府側からの正式な回答はなく、再度強く迫っても言(げん)を左右にするばかりでした。蒋介石の態度に業(ごう)を煮やした我が国は、国民政府との交渉を打ち切る決断を最終的に下したのですが、その一方で、交渉決裂に最後まで反対した勢力も存在しました。それはどこだと思いますか。
実は陸軍なのです。
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なぜなら、広大な中国大陸での全面的な戦闘状態となれば、大陸に多数の兵力などを投入しなければならなくなり、同じアジアの脅威(きょうい)であったソ連(現在のロシア)などに対する備えが不十分になる恐れがあったからです。
我が国の戦力の限界を考慮した陸軍の参謀本部は、昭和13(1938)年1月11日に昭和天皇ご臨席のいわゆる御前会議が開かれた際に「支那事変処理根本方針」を示すなど、あくまで和平による事変解決に望みをつないでいました。
しかし、その直後にトラウトマンを通じて蒋介石側から誠意のない回答が送り付けられたことから、我が国では、政府が主体となって国民政府との交渉打ち切りに向けて突き進むことになるのです。
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近衛首相の考えも広田外相と同様であったことから、閣議において交渉打ち切りを決定し、昭和13(1938)年1月16日に「今後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表しました。これを第一次近衛声明といいます。
近衛首相がこのような一方的な声明を出した理由としては、我が国と友好的な政府がチャイナにできることを期待していたからだ、という説もありますが、声明が出された当時のチャイナに存在していた有力な政府組織は、蒋介石の国民政府以外には有り得ませんでした。つまり、我が国は第一次近衛声明によって、日華事変の早期停戦に向けての唯一の窓口を自ら閉ざした結果となってしまったのです。
第一次近衛声明の発表は日華事変の泥沼化を招きましたが、その一方で軍部の統制派と同じ思想を持った官僚によって、国家総動員法など社会主義的な内容の法制度が次々と成立した一方で、ソ連への備えがおろそかになるという流れをもたらしましたが、この声明によって一番得をしたのは果たして誰なのでしょうか。
当時の近衛内閣には、後にソ連(=コミンテルン)のスパイとして処刑された尾崎秀実(おざきほつみ)がブレーンとして暗躍(あんやく)していたことを、私たちは忘れてはいけません。
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しかし、重慶にまで逃れるということは、通常であれば食糧や武器弾薬の調達など出来るはずもなく、講和以外に方策がないことを意味していましたが、実際には国民政府は日本軍に対して徹底抗戦を続けました。なぜこんなことが可能だったのでしょうか。
それは、ソ連やイギリス、さらにはアメリカなどが莫大(ばくだい)な援助を蒋介石に与え続けていたからです。こうした国々は、日華事変には中立国の立場であるはずが、実際には国民政府に対して一方的な肩入れをしていました。
もし蒋介石への手厚い支援が存在しなければ、日華事変はもっと早期に終結していたことでしょう。アメリカなどが中立国にあるまじき行為を繰り返していたことも、日華事変の泥沼化の一因だったのです。
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声明において、我が国は中国との戦闘状態の目的を「日・満・華3国の連帯をめざし、東亜の安定を確保すべき新秩序を建設する」ことにあるとして、国民政府が容共抗日策(ようきょうこうにちさく、中国共産党と連携して我が国に対抗する政策のこと)を捨てて、新秩序の建設に協力することを呼びかけました。
一方、蒋介石に代わる新たな政府との和平交渉を願っていた我が国は、国民党の副総裁であった汪兆銘(おうちょうめい)と密かに交渉し、昭和13(1938)年12月に汪兆銘が重慶を脱出すると、第一次近衛内閣は第三次近衛声明に当たる「近衛三原則」を発表しました。
近衛三原則において我が国は東亜新秩序建設のために「善隣友好・共同防共・経済提携」を呼びかけており、日中和平への道が開かれたと判断した汪兆銘は国民政府に対して和平を呼びかけましたが、蒋介石側は汪を国民党から除名してこれを拒絶しました。
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こうして誕生した汪兆銘による南京国民政府でしたが、当時勃発(ぼっぱつ)していた第二次世界大戦におけるアメリカなどの連合国が汪兆銘政権を認めなかったこともあり、日華事変を終結させることはできませんでした。
ところで、汪兆銘政権の誕生は日本政府における対中和平実現に向けた流れがもたらしたものと一般的に解釈されているようですが、蒋介石政権(=国民政府)がアメリカなどの手厚い支援を受けて健在だったことを考えれば、中国側の窓口をわざわざもう一つ作ったことによって、本当の意味での和平工作をより困難にしてしまったという見方も成立します。
第一次近衛文麿内閣やその後の政府が汪兆銘政権誕生に執念を燃やした「本当の目的」は果たしてどこにあったのでしょうか。はっきりと言えることは、日華事変の泥沼化が中国大陸における果てしない戦闘状態を引き起こして日本軍と国民政府軍とを著しく疲弊(ひへい)させ、第二次世界大戦後に中国共産党が主体となった中華人民共和国が成立したという歴史上の事実が厳然と存在しているということです。
さらに付け加えれば、日華事変の泥沼化は必然的に国民に対する協力体制を形成するようになり、我が国が次第に「社会主義化」するという流れを生み出すことになったという事実を私たちは見過ごすわけにはいきません。
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