結果的に90歳を超える長寿となった栄一の人生ですが、その中で彼は何度も命を落としかけています。しかし、その極限状態の中で、どこからともなく「救いの手」が差し伸べられたことによって、彼が生き続けたのは紛れもない事実でした。
そして、そんな彼を救った人物の多くが、自身の人生を中途半端な状態で終わらせていることを皆さんはご存知でしょうか。
例えば、先述した高崎城乗っ取り計画に真っ向から反対し、栄一に計画を断念させた従兄の尾高長七郎は、その直後に殺人を犯してしまい、長い入牢(じゅろう)の後に若くして死亡しました。また、栄一を慶喜に紹介した平岡円四郎も、急進的な考えを持った水戸藩士によって元治(げんじ)元(1864)年に斬殺されました。
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人間の一生は、時として不思議な運命をたどることがありますが、栄一が大実業家となって歴史にその名を残し、90歳を超えるまでの長寿を保ったのも、若き日の彼を支えながら不本意な形で人生を終わらせざるを得なかった人々の精神や魂(たましい)が、彼に王道を歩み続けさせたからかもしれません。
さて、栄一はヨーロッパでの経験を活かして、我が国で初めての銀行兼商社となる「商法会所」を藩内に設立し、藩の財政を豊かにするとともに、資本主義を我が国に定着させようとしました。なお、商法会所は後に「常平倉(じょうへいそう)」と改組されています。
ところが明治2(1869)年、そんな栄一に明治新政府からの招状が届き、栄一が東京に出向くと民部省租税正(みんぶしょうそぜいのしょう、民部省は後に大蔵省=現在の財務省に統合)への出仕話が持ち掛けられました。断ろうと思った栄一でしたが、肥前(ひぜん)藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)の説得を受けいれ、明治における新たな国づくりに栄一の手腕が発揮されることになりました。
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また、郵便制度の成立や廃藩置県の実施にも深く関わるなど、明治初期の政策の実現に大きく貢献した栄一でしたが、政府の首脳であった薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)と対立したり、栄一が旧幕臣の出身ということで、いわゆる「藩閥(はんばつ)」出身者が多かった政府の役人との軋轢(あつれき)が生じたりしました。
やがて父の死や上司である長州藩出身の井上馨(いのうえかおる)の辞職を契機に、明治6(1873)年に栄一は約3年半務め上げた大蔵省を辞して、34歳で実業界へと乗り出していくことになります。
なお、栄一が大蔵省の時代に群馬県の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が操業を開始しましたが、その初代場長としてかつて戊辰戦争を旧幕府側で戦った従兄の尾高惇忠を迎えたほか、同じく戊辰戦争に最後まで従軍して投獄されていた従兄の渋沢喜作を出獄させて大蔵省に出仕させるとともに、近代的な養蚕製糸事業の調査のためヨーロッパに渡航させています。
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栄一が設立や経営に関わった会社は、有名なものだけで「抄紙会社(現在の王子製紙)」「東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)」「清水組(現在の清水建設)」「日本(にっぽん)郵船」「中外(ちゅうがい)物価新報(現在の日本経済新聞)」「大阪紡績(現在の東洋紡)」「東京電燈会社(現在の東京電力)」「日本瓦斯(ガス)会社(現在の東京ガス)」「帝国ホテル」「札幌麦酒会社(現在のサッポロビール)」「日本鉄道会社(現在のJR東日本)」などがあり、その数は約500社ともいわれています。
この他にも、栄一は「商法講習所(現在の一橋大学)」「大倉商業学校(現在の東京経済大学)」「東京商法会議所(現在の日本商工会議所)」「東京株式取引所(現在の東京証券取引所)」の設立にも中心的な役割を果たしています。
なお、渋沢と同じように大阪で様々な事業を立ち上げたのが、先述した五代友厚でした。五代は「大阪造幣局」「大阪商業講習所(現在の大阪市立大学→大阪公立大学)」「阪堺鉄道(現在の南海電車)」「大阪株式取引所(現在の大阪取引所)」「大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)」などの事業の設立に携(たずさ)わったほか、大阪商法会議所の初代会頭も務めました。
五代友厚は近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人でもありましたが、惜しくも明治18(1885)年に満49歳の若さでこの世を去りました。大阪市中央区北浜の大阪取引所前にある五代友厚像は、彼の功績を称えて建立されたものです。
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明治11(1878)年、向島(むこうじま)の料亭に招待された栄一は、岩崎から次のような提案を受けました。
「君と僕が固く手を握り合って事業を経営すれば、日本の実業界を思いどおりに動かすことができる。これから二人で大いにやろうではないか」。
しかし、自分一人で金儲けする気が全くなく、様々な事業を興すことで大勢の人が利益を受けると同時に、国全体を富ますことを常々考えていた栄一は激しい議論の末に喧嘩別れし、その席にいた馴染(なじ)みの芸者と一緒に姿を消したそうです。
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もし栄一が目先の欲得に目がくらみ、岩崎との共同経営に合意していれば、後の我が国の資本主義は今とは全く形の違うものになっていたことでしょう。栄一の揺るがぬ信念があったればこそ、現代の我が国が世界有数の経済大国として君臨しているともいえます。
そんな栄一が常々口にしていたのが「論語と算盤(そろばん)」でした。
「論語」とはチャイナの孔子(こうし)の言葉を弟子たちがまとめたものであり、我が国でも古くからよく読まれるとともに、栄一自身も幼い頃から論語を熟読しました。
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論語には自分自身を修め、他人と交わるための日常の教えが説かれており、もっとも欠点の少ない教訓でもあることから、この論語の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができると思い至ったのです。
栄一は、論語と算盤を一致させることで「孔子の精神で商業を営む」、すなわち「多くの人々の利益を志す商売を行わなければならず、自分勝手なガリガリ亡者の儲け主義に走ってはならない」ことを理解しました。そして、そのためには「多くの人たちと手を取り合って公益のために努力する」ことが重要であると考え、栄一は生涯をかけて自分の信念を貫き通しました。
この「論語と算盤」の精神に基づいて栄一が積極的に行ったのが、歴史に残る様々な公益事業でした。
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しかし、経費の増大を理由に東京府議会が明治16(1883)年に養育院の廃止を決議すると、栄一は当時建てられたばかりの西洋式の建物である鹿鳴館(ろくめいかん)でバザーを行って資金を集めるなどして、養育院の事業に終生携わりました。
また、栄一は国際交流にも力を入れました。移民問題などによって我が国とアメリカとの関係が悪化すると、栄一は昭和2(1927)年に日本国際児童親善会を設立したほか、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリックと協力して日本の「市松(いちまつ)人形」とアメリカの「青い目の人形」を交換し、親善交流を深めることに尽力しました。
こうした数々の業績によって、栄一は大正15(1926)年と昭和2(1927)年のノーベル平和賞の候補にもなりましたが、昭和6(1931)年11月11日に92歳(満91歳)の長寿を全うしてこの世を去りました。
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「論語と算盤」の精神によって私心なき活動を続けたことで「日本資本主義の父」とまで称された渋沢栄一でしたが、若い頃に尊王攘夷に燃えてテロを起こそうとした男が幕府側の一橋家に仕え、やがて幕臣になると攘夷の対象であった外国へ留学し、さらには旧幕臣でありながら明治新政府の官僚となるもわずか数年で辞することになるなど、彼の半生はまさに波乱万丈の連続でした。
しかし、そんな「七転八倒の青春時代」を過ごしたことが、実業家となってからの栄一の血となり肉となったことは間違いありません。人生で何度も訪れた逆境を、栄一は「論語と算盤」の精神を実践することで何度も乗り越え、我が国の歴史にその名を残したのです。
今の我が国は、新型コロナウィルス感染症がもたらした「コロナ禍」によって、肉体的や精神的あるいは経済的などあらゆる面で様々な制約を余儀なくされています。
しかし、たとえ「ゼロコロナ」は叶わずとも、いつの日か「ウィズコロナ」によって落ち着きを取り戻す日々がやって来るでしょうし、これまでにも数々の疫病や災害を乗り越えてきた我が国ですから、必ずや復興を遂(と)げることができるでしょう。
考えてみれば、コロナ禍が厳しかった令和3(2021)年に渋沢栄一が大河ドラマで紹介され、コロナ禍が一段落し、我が国の経済が勢いを取り戻すであろう令和6(2024)年に新たな一万円札の顔となることは決して偶然ではなく、彼が唱えた「論語と算盤」の精神とともに、我が国が輝きを取り戻す象徴として、現在そして未来の日本人が語り継ぐべき偉人なのです。
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