令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公であり、また令和6(2024)年から新たに発行される一万円札の肖像画として採用された渋沢栄一(しぶさわえいいち)について、皆様はどの程度ご存知でいらっしゃるしょうか。
渋沢栄一と言えば、その生涯で約500社ともいわれる会社の設立に関与するなど「日本資本主義の父」と呼ばれたことで有名ですが、彼の人生そのものについては大河ドラマで初めて具体的に知った人も多いかもしれませんね。
栄一を語る際に、もっとも知られている肩書は「実業家」ですが、その半生には「過激な尊王攘夷派(そんのうじょういは)」「幕臣」「明治政府の官僚」など様々な経験を積んでおり、それらがすべて90年を超える彼の人生に大きな足跡を残しているのです。
今回は、渋沢栄一の生涯の全般を振り返るとともに、幕末における我が国の大きな歴史の流れを同時に紹介していきたいと思います。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
栄一の実家は養蚕(ようさん)や藍玉(あいだま)の製造を手掛ける豪農であり、裕福な家庭で生まれた栄一は幼い頃から学問に励み、やがて7歳になると、10歳年上の従兄である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとで「四書五経」や「日本外史(にほんがいし)」などを学び始めました。
学問に大いなる興味を持った栄一は読書に夢中となり、12歳の正月のあいさつ回りの際には本を読みながら歩いていて溝に落ちてしまい、晴れ着を汚して母親に叱られたというエピソードが残っています。
栄一は読書の他にも剣術や習字などの稽古に励みましたが、14歳~15歳の頃には父親から「そろそろ農業や商売にも身を入れなさい」と言われたこともあり、畑仕事や藍葉の仕入れに没頭し始めました。
すると、栄一は自分一人で藍の買い付けに出かけるようになり、その際に肥料が少なかったりして藍の出来が良くないことなどをことごとく指摘して、相手方を大いに驚かせたそうです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
栄一は「私は代理人としてきたので、今日は金額のみを聞いて帰り、正式な回答は後日連絡します」と述べて即答を避けましたが、代官は栄一に対してすぐに承知するよう、口汚い言葉で強要しました。
何とかその場を逃れた栄一でしたが、父親の判断で結局は御用金を受けることになりました。しかし、栄一は「代官の横っ面を張り倒してやりたいほど腹が立った」と後々まで家族の前で語るほど悔しい思いをしたそうです。
代官の一方的な物言いは「良い血筋にさえ生まれれば、それこそ無能や無学な者でも一定の地位に就くことができる」ということに他ならず、封建制度による厳格な身分の壁への憤りを感じたこの時の経験が、栄一のその後の人生に決定的な影響を与えるようになるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
いわゆる「激動の幕末」が始まったわけですが、この流れを理解することは、若き日の栄一がなぜ尊王攘夷の思想を強く持つようになったかを知るうえで非常に重要ですので、詳しく紹介します。
我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」を皮切りに、我が国はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいます)、その内容は「相手国に領事裁判権を認めること」や「我が国に関税自主権が認められない」など、著しく不平等なものでした。
まず領事裁判権は別名を「治外(ちがい)法権」ともいいますが、これは、外国人が在留する現地の国民に危害を加えた場合に、その外国の領事が自国の法によって裁判をする権利のことです。
例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪を犯しても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪を犯せば、アメリカの法で裁かれてしまうため、日本にとって極めて不利となったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入も見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになりました。
さらには、この条約に基づいて始まった貿易によって、準備不足だった我が国は大きな混乱状態に陥ってしまうのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内で品不足となったことで物価を押し上げた一方で、外国製の安価な綿織物の大量輸入は、農村における綿作(めんさく)や綿織物業を圧迫することになりました。
これらのことは、もし開国あるいは貿易に向けて何年も前から入念な準備を行っていれば、そもそも発生しない問題だったのです。
事態が起きてから対策を練るという、いわゆる後手に回ったことで対応に苦悩していた幕府をさらに困らせたのが「我が国と外国との金銀の比価の違い」でした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解されず、また幕府の外交技術や経済観念の乏(とぼ)しさもあり、アメリカ総領事のハリスが主張した「銀の価値による交換」が強引に行われることになってしまいました。
すなわち、メキシコドル4枚を日本で一分銀12枚という「価値」を基準に交換し、それを日本国内において金3両で両替すると、小判を海外に持ち帰ってメキシコドル12枚という「海外の金銀相場」で交換したのです。
日本を経由するだけで手持ちの資産が3倍になるという、錬金術師(れんきんじゅつし)顔負けのカラクリによって、銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、その結果として我が国の金貨が大量に海外に流出してしまいました。その被害は10万両以上ともいわれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げたのであればまだしも、貿易による値上がりで景気が悪化していた時期に貨幣を改鋳してしまったことから、物価がますます上昇して悪質なインフレーションとなり、庶民の暮らしは大きな打撃を受けるようになってしまいました。
貿易開始に伴う庶民の生活の困窮(こんきゅう)ぶりに拍車をかけたのが、相次ぐ天災の発生や疫病(えきびょう)の流行でした。日米和親条約が結ばれた嘉永7(1854)年から安政年間(1850年代後半)にかけて、我が国では大地震が連発しました。いわゆる「安政の大地震」です。
特に、安政2年旧暦10月2日(1855年11月11日)夜に発生したマグニチュード6.9~7.4と推定される「安政江戸地震」では約1万人が犠牲になったとされ、水戸藩の学者であった藤田東湖(ふじたとうこ)が倒壊した自宅の下敷きとなって圧死しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りはそのまま外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留する外国人が襲われるようになると、これがそのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そして、翌安政7年旧暦3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して、水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。
この「桜田門外の変」によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清(しゅくせい)」が半ば常識化してしまいました。
かくして、1860年代前半には日本全国において「尊王攘夷運動」が盛んとなり、その流れが栄一の周囲にまで及ぶようになるのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
栄一らは槍や刀などを着々と買い集め、文久3(1863)年旧暦10月29日の夜に決行のために集結しましたが、急進派の一人であり、京都から戻ったばかりの長七郎が計画の中止を唱え始めました。京都で最新の国内情勢を入手した長七郎は、栄一たちの計画が成功する見込みがないどころか、百姓一揆と見なされて無駄に生命を落とすだけであると懸命に説得しました。
栄一は長七郎と激論を交わしましたがやがて同意し、計画を寸前に取りやめることになるのですが、こうした「極限状態における人生の選択」において、最善あるいは最良の道を歩んでいったのも、栄一の人生における大きな特徴なのです。
さて、計画は中止したものの、不穏な動きを探っている幕府側に目をつけられる恐れがあったため、栄一と喜作はかねてより親交のあった一橋家(ひとつばしけ)の家臣である平岡円四郎(ひらおかえんしろう)を頼って京都に向かいました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
栄一は尊王攘夷にこだわる喜作を説得して、円四郎の申し出を受けました。尊王攘夷のためには倒幕を目指していたはずの栄一らが、将軍の血筋にあたる一橋家に仕官するというのはまさに逆転の発想ですが、ここでも栄一は大局的な判断を下し、その後の人生が大きく開ける流れを生み出したのです。
士分となった栄一は、新たに「篤太夫(とくだゆう)」と改名したほか、円四郎の配慮によって、仕官する際に主君となる一橋慶喜(よしのぶ)に拝謁(はいえつ)しました。
一橋慶喜は後の15代将軍・徳川慶喜であり、水戸藩から一橋家に養子として迎えられ、当時は京都で御所を警備する禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられていました。そんな慶喜に対して、拝謁した栄一は「幕府の命運もすでに絶えている」など、時勢に関する自分の思いを正直に申し出ました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、慶応(けいおう)2(1866)年に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が21歳の若さで急死してしまい、その後継として慶喜が15代将軍に推挙されました。慶喜が将軍になったことで栄一の身分は「幕臣」となりましたが、栄一自身の心は暗く沈んでいました。
栄一は、慶喜のような英邁(えいまい)な人間は側面から幕府を支えるべきで、将軍になるべきではないと考えていたのです。また慶喜が「上様」になってしまえば、自分のような身分の人間は二度とお目にかかれないかもしれないという思いが、栄一に辞職まで考えさせるようになっていました。
しかし、ここで突然彼の前に大きな転機が巡ってきました。フランスへの渡航の話が彼にもたらされたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
総務あるいは会計担当係として随行した栄一は、国賓(こくひん)待遇で当時の最新鋭の技術を駆使したパビリオンが集まった万博を見学したほか、西欧の最先端の文化などを学ぶべくヨーロッパ各国にまで足を延ばしましたが、この経験が栄一をさらに成長させることにつながりました。
当時のヨーロッパの繁栄を形づくっていたのは「資本主義」を基にした強大な経済力でした。多くの人々がお金を出し合って「コンパニー」をつくり、そのコンパニーが発展することでお金を出した人々が利益を得るということを、栄一は渡航費用の一部を実際に投資したことによって肌で理解したのです。
また、身分制度が固定化した日本と違って、ヨーロッパでは商人と軍人が全く対等に接している姿や、ベルギーの国王が自国で生産される鉄鋼を自ら売り込む姿を実際に目にした栄一は、我が国における商人の地位を向上させることがいかに重要であるかということを思い知らされました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし「グーヴェルマン」の本当の意味は「政府」であり、後にフランスの新聞によって「日本は一つの国家ではなく連合国であり、将軍と薩摩とは同格である」と書かれてしまったのです。
まさに薩摩藩に「してやられた」形となりましたが、そんな薩摩藩においてフランスと事前に綿密に交渉し、薩摩が優位に立つように導いたのが、薩摩藩士の五代友厚(ごだいともあつ)だったそうです。
こうしてヨーロッパで様々な経験を積んだ栄一ですが、この渡航は翌1868年に突然打ち切りとなってしまいました。我が国の政治体制が大きく変動したからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜ慶喜は大政奉還を行ったのでしょうか。栄一らが外国に行っている間に我が国の歴史が大きく変化したことになりますが、ここでその流れを振り返ってみましょう。
徳川慶喜はフランス公使ロッシュの援助を受けて軍制改革を行うなど幕政の立て直しに努めていましたが、開国後の混乱もあって当時の幕府の権威は著しく下がっており、社会不安も増大していました。
そんな中、慶応2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。
なぜなら、幕府が成立した背景には「天皇陛下のご存在」が深くかかわっているからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国における「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を朝廷から、すなわち「天皇に委任される」ことになりました。もちろん、この流れは室町幕府も江戸幕府も同じです。
要するに、江戸幕府は「天皇のお墨付き」をもらっていたも同然であり、いかに武力で勝ろうとも、そんな幕府をいきなり討つことは天皇に弓を向けるも同然の行為であり、絶対にできなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。
しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入などによって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つ形で政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜は山内の策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年旧暦10月14日に、先述のとおり朝廷に対して「大政奉還」を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康(とくがわいえやす)以来260年余り続いた江戸幕府がついに終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。実は、これに関しても、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその根拠を失うという流れをも成立させてしまいました。
さらには徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がないと憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3年旧暦12月9日(1868年1月3日)に武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大号令の直後に官職の大改革を実行しました。
すなわち、それまで1000年以上続いた摂政や関白を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」を創設したのです。しかも、新たに創設された三職に徳川慶喜の名はありませんでした。
これによって徳川家が新政権への参加の道を断たれたのみならず、討幕派が中心となった新政府はさらなる追い討ちを同日のうちに徳川家にかけたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。