肥料も山野の草や木の灰を利用した草木灰(そうもくばい)や、青いままの草を刈って田畑に敷(し)き込む刈敷(かりしき)が利用されるなど、次第に工夫されていきました。
また、牛馬(ぎゅうば)を利用した農耕も進み、鎌(かま)や鍬(くわ)などの丈夫で鋭利な鉄製の農具が一般農民にまで普及したこと、さらには悪条件でも育つ多収穫米の大唐米(だいとうまい)が輸入されたことで、生産性も向上しました。
この頃には染料の原料である藍(あい)や紙の原料である楮(こうぞ)、灯油の原料である荏胡麻(えごま)などの栽培が行われるようになったり、絹布(けんぷ)や麻布(まふ)なども織られるようになったりしました。特に、荏胡麻による灯油が広く普及したことで夜の世界でも長時間の生活が可能になり、人々の生活は劇的に変化していきました。
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鎌倉時代の頃には、物資や人が集中する荘園や公領の中心地や交通の要地、あるいは寺社の門前地で定期市(ていきいち)が開かれるようになりました。その多くは月に三度の市であり、仏教行事の斎日(さいにち)にちなんで「三斎市(さんさいいち)」などと呼ばれました。
市では米や地方の特産物などが売買されるとともに、中央から商品を運んでくる行商人(ぎょうしょうにん)も現れるようになり、やがては常設の小売店である見世棚(みせだな)も見られるようになっていきました。
また、手工業者(しゅこうぎょうしゃ)は製品を売りさばく商人も兼ねるようになり、同業種の商人が集まることによって、平安時代後期から認められていた寺社や公家に属しての製造や販売に関する特権が、この頃までには「座(ざ)」と呼ばれる団体に発展しました。
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兵庫や淀といった各地の湊(みなと)や大河川沿いの交通の要地には、年貢の輸送や保管にあたる問丸(といまる、別名を問=とい)が発達し、陸上交通の要地には宿(しゅく)が設けられるようになりました。
売買の手段としては、従来用いられてきた物々交換(ぶつぶつこうかん)に代わって輸入された宋銭(そうせん)が使用され、遠隔地間の取引には為替(かわせ)が利用されました。貨幣経済の発達によって、荘園の一部では年貢の支払いも銭納(せんのう)で行われるなど便利になった一方で、銭を貸して高い利息を取る金融業者の借上(かしあげ)が現れました。
借上は分割相続による所領の細分化によって生活に苦しむようになった御家人に融資して、支払いが滞(とどこお)ると御家人の権利を取得して荘園の管理権を得る者まで現れるなど、経済の発達は鎌倉幕府の根本である御家人の生活にまで大きな影響を及ぼすようになっていきました。
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