館の周辺には年貢や公事(くじ、年貢以外の雑税のこと。律令制の調・庸・雑徭の系統をひく)がかからない佃(つくだ)や門田(かどた)などと呼ばれた直営地があり、下人(げにん)や所領内の農民を使って周辺の荒野を開発して耕作させた一方で、自らは地頭として国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園を現地で管理し、農民から年貢を徴収して国衙領や荘園領主に納めていました。
武士の社会では、一族の子弟たちに所領を分け与える「分割相続」が一般的でした。一族は宗家(そうけ、別名を本家=ほんけ)の長である惣領(そうりょう、別名を家督=かとく)を中心に統率されており、惣領以外の庶子(しょし)とともに戦時には団結して戦い、平時には氏神(うじがみ)の祭祀(さいし)などが惣領を中心に行われました。このような制度を「惣領制」といいます。
ちなみに、分割相続の際には女性に対しても公平に分配されていました。また、女性が御家人や地頭になる例も見られるなど、女性の地位が高いものであったといえるでしょう。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
当時の武士は先祖代々の所領を子孫に伝えることを念願するとともに、武勇を重んじるなどの質実剛健(しつじつごうけん、飾り気がなく真面目で、たくましく、しっかりしているさまのこと)の気風や名誉を大切にしていました。
このような武士特有の道徳は「兵(つわもの)の道」や「弓馬(きゅうば)の道」と呼ばれ、武士による力強い精神と生活が我が国の社会に新しい活力を与えるとともに、武士による新しい社会を世の中に定着させる要因にもなりました。
武士の道徳は武勇を重んじ、主人に対する忠誠心や、一門や一家の繁栄を願うといった精神あるいは恥を知るという感情といった特徴を持っており、これらは後世における武士道の起源になりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
地頭による非法に対し、荘園・公領の領主たちは訴訟によって事態を解決しようとしましたが、現地に根を下ろした地頭の行動は次第に無視できないものになっていきました。そこで、領主側は地頭との紛争を避けて収入を確実に得るため、やむを得ず地頭に荘園の管理一切を任せて一定の年貢収入だけを請け負わせるという「地頭請所(じとううけしょ)」の契約を結びました。これを「地頭請(じとううけ)」ともいいます。
この他にも、現地の土地を分割して地頭に分け与え、別々の支配を認め合うという「下地中分(したじちゅうぶん)」も行われるようになるなど、地頭の権限はさらに強化されていきました。これらの背景には、武士が政治の実権を握ったことで地位が飛躍的に上昇したのみならず、強い武力を持っていた地頭に対して荘園領主が何もできなくなってしまったという実情がありました。
鎌倉幕府の方針も基本的には当事者間の取り決めによる解決を進めたことで、荘園などの現地の支配権は次第に地頭の手に移っていきました。まさに「泣く子と地頭には勝てない」といったところでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。