承久(じょうきゅう)の乱(=承久の変)の後、鎌倉幕府は3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)の時代に発展期を迎えました。泰時は執権の補佐役としての「連署(れんしょ)」を設置して、北条氏の一族の有力者を任命しました。
また、有力な御家人などの11人を「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に選んで、合議制によって政務の処理や裁判にあたらせました。
泰時は貞永(じょうえい)元(1232)年に51か条からなる「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定しました。御成敗式目は我が国最初の武家法であり、頼朝以来の先例を基本とした武家の慣習や道理を成文化したものでした。
内容としては、守護や地頭の任務や権限を定めたり、御家人の権利義務や所領の相続の規定、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争を処理する基準などが定められたりしました。
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なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで「貞永式目」とも呼ばれており、また式目が51か条となったのは、聖徳太子(しょうとくたいし)の「憲法十七条の3倍」が由来とされています。
北条泰時による執権政治は、孫の5代執権である北条時頼(ほうじょうときより)に引き継がれました。時頼が執権に就任した直後の寛元(かんげん)4(1246)年に前将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)が反乱を起こしましたが、これを鎮圧した時頼は、頼経を京都へ送り返しました。
また、翌宝治(ほうじ)元(1247)年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)で執権を世襲する得宗家(とくそうけ)の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から「宝治合戦(かっせん)」と呼ばれています。
さらに建長(けんちょう)4(1252)年には5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子である宗尊(むねたか)親王を6代将軍として迎えました。これ以降、名目だけの「皇族将軍」または「親王将軍」が幕府滅亡まで4代続くことになります。
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なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって「院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)」が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
康元(こうげん)元(1256)年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。
時頼のように北条氏の嫡流の当主である得宗が実権を持って政治を指導する「得宗政治」の専制化が強まったことで、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。
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上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話を聞くと、信濃(しなの、現在の長野県)から鎌倉へ向かおうと旅をしてきたのですが、大雪のために先へ進むことができなくなってしまったらしいのです。
しかし、源左衛門は自分が貧しいために、旅人をもてなそうにも何もしてやることはできないと思って、一度はその僧の願いを断りましたが、雪の中で難儀(なんぎ)しているのを見捨てることもできず、結局は泊めることにしました。
源左衛門は旅の僧のために粟飯(あわめし)を出すなどの心ばかりのもてなしをしましたが、夜が更けて寒さが身にしみる頃には、旅の僧に暖をとってもらうための薪(まき)さえなくなってしまいました。そこで源左衛門は、大事に育てていた盆栽(ぼんさい)の「梅」「松」「桜」の鉢の木を惜しげもなく切って、囲炉裏(いろり)にくべました。
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「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はご覧のとおりに落ちぶれてしまいました」。
源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。僧の視線に気がついた源左衛門は、力を込めて話を続けました。
「しかしながら、我が身がいかに落ちぶれたとはいえ、この源左衛門は鎌倉殿の御家人。いざ鎌倉に一大事があらば、古ぼけた鎧であってもこれを身につけ、さびたといえどもあの薙刀を持ち、やせ馬にむち打って、誰よりも早く鎌倉に駆け付けて、生命を懸けて戦うつもりでござる!」
源左衛門の見事な覚悟ぶりに、旅の僧は黙って何度もうなずきました。そして翌朝、旅の僧は丁重(ていちょう)にお礼を述べて、源左衛門の家から旅立ちました。
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「源左衛門、よくぞ参った。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の僧は、実は鎌倉幕府の最高実力者である、前の執権の北条時頼だったのです。
時頼は源左衛門の忠義を称(たた)えるとともに、奪われていた彼の領地を取り戻しただけでなく、梅田(うめだ)・松井田(まついだ)・桜井(さくらい)という鉢の木にちなんだ3か所の領地を新たに与えたということです。
以上の話は時頼よりも後の時代につくられたとされており、創作の可能性が高いですが、たとえ「つくり話」であったとしても、時頼であれば似たような行動をしてもおかしくないと当時の人々に思われ続けたからこそ、長く語り継がれてきたのでしょう。また、鎌倉時代の「御恩と奉公」の仕組みや「一所懸命」の思いなどがよく分かる伝説でもあります。
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