それまでの借金がなくなったり、所領が元に戻ったりしたことで、御家人たちはようやく一息つくことができましたが、皮肉なことに、この徳政令が御家人たちをますます追い込んでいくことになりました。なぜそうなったでしょうか。
借上たちの立場で考えてみましょう。彼らは御家人たちから利息を集めることや、借金が払えなければ土地を取り上げて、それを基本にさらに商売を拡大することで生計を立てています。
それなのに、徳政令が出されたことによって、借金を返してもらえないうえに、正当な取引によって所有した土地を強制的に奪われるという散々な目にあってしまいました。
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しかし、幕府によって一度痛い目にあっている借上たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらしてしまったのです。
なお、御家人の窮乏化(きゅうぼうか)の原因に分割相続があったことで、鎌倉時代の後期までには惣領が所領のすべてを相続するという「単独相続」が一般的になり、庶子は惣領によって扶養(ふよう、養ってもらうこと)されるようになりました。
また、畿内やその周辺を中心として、武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主や幕府に対抗する武士団が多く見られるようになりました。彼らは「悪党(あくとう)」と呼ばれ、その勢力はやがて各地に拡大して、得宗専制政治を強化した幕府を次第に悩ませるようになりました。
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その後、琉球は山北(さんほく、別名を北山=ほくざん)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん、別名を南山=なんざん)の三つの勢力に統合されていきました。
12世紀頃から、琉球ではそれまでの貝塚文化を経て農耕生活が始まり、グスクが形成されていきました。いわゆる「グスク時代」の始まりです。
なお、按司は農耕社会が成立したグスク時代の琉球諸島や奄美群島の各地に現れ、当初は集落や聖地からなっていたグスクも、彼らの成長とともに石垣による立派な城が建築されるようになっていきました。
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なお、これらの文化はいずれも漁労(ぎょろう)あるいは狩猟に基礎を置く文化です。
これらの文化を経て、13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになりました。アイヌの人々は津軽(つがる、現在の青森県西部)の十三湊(とさみなと、現在の青森県五所川原市)を根拠地として、得宗の支配を受けていた安藤(あんどう)氏(別名を安東氏)と交易していました。
ちなみに、樺太(からふと)に住んでいたアイヌの人々はモンゴルと交戦した記録が残っているそうです。モンゴルの影響が日本列島に広く及んでいたことがよく分かりますね。
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これらの現象が、平安中期より広まり始めた「末法(まっぽう)思想」そのものであると人々に強く信じられたことで、救いを求める人々の期待に応えるかのように新しい仏教が鎌倉時代に相次いで生まれ、広く信仰を集めました。
いわゆる「鎌倉仏教」とも呼ばれる新しい仏教は、それまでの加持祈祷(かじきとう)や学問とは異なり、内面的なものを重視しながら武士や庶民(しょみん)などの幅広い階層を中心に広まったのが大きな特徴でもありました。
美作(みまさか、現在の岡山県北東部)の武士の家に生まれた法然(ほうねん)は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗(てんだいしゅう)を学んだ後に下山(げざん)すると、一心に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)への道が開かれるとする「専修(せんじゅ)念仏」の教えを説(と)きました。いわゆる「浄土宗(じょうどしゅう)」のことです。
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法然は「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」という著書を残しています。また、浄土宗の総本山(そうほんざん、中心となる寺院のこと)は京都の知恩院(ちおんいん)です。
法然が流された頃に、彼の弟子として同じく越後(えちご、現在の新潟県)に流されたのが親鸞(しんらん)でした。貴族の出身である親鸞は天台宗の僧となって比叡山延暦寺で修行を積みましたが、やがて自力での修行に限界を感じると山を下りました。
下山後に法然と出会った親鸞は、彼の弟子として研鑽(けんさん)を積む間に師の教えをさらに徹底させて、阿弥陀仏(あみだぶつ)の存在を信じて心に念ずるだけで(つまり、念仏を言葉で唱えることにこだわらない)極楽往生できるとしました。阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じる心を強調した彼の教えは「浄土真宗(じょうどしんしゅう、別名を一向宗=いっこうしゅう)」と呼ばれています。
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現代のお坊さんはどの宗派の人も結婚できますが、これが広まったのは明治時代以降のことであり、それ以前の僧は浄土真宗を除いて戒律を守っていましたから、当時の親鸞の特異性がうかがえます。
この他にも、親鸞は自分の煩悩(ぼんのう、身心を悩ませ苦しめる心の作用のこと)の深さを知っている人間(=悪人)こそが、自らが阿弥陀仏による救いの対象となることを知ることができるとする「悪人正機(あくにんしょうき)」を説きました。
親鸞は越後への流罪の後も関東地方で30年以上留まって布教を続ける一方で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」という著書を残しました。親鸞の没後に弟子の唯円(ゆいえん)がまとめたとされる「歎異抄(たんにしょう)」も有名ですね。ちなみに、浄土真宗の総本山は京都で東西に分かれた本願寺(ほんがんじ)です。
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「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」と考えた一遍は、全国を行脚(あんぎゃ)しながら念仏札を配ったり、踊念仏(おどりねんぶつ)によって信者たちと集団で念仏を唱えたりしながら教えを広めました。
踊念仏には、人間にとって捨てきれない煩悩(ぼんのう)をひたすら踊ることで燃え尽くすほどに発散させようとする狙(ねら)いと、極楽往生できることがすでに決まっていることに対する喜びや感謝の気持ちを表現するという意味が込められているとされています。
全国を遊行(ゆぎょう、僧が布教や修行のために各地を巡り歩くこと)して布教を広めたことで一遍は「遊行上人(しょうにん)」とも称され、また彼に従った人々は「時衆(じしゅう)」と呼ばれました。一遍は死の直前に自己の所有していた経典などをすべて焼き捨てましたが、彼の弟子たちによってまとめられた「一遍上人語録(いっぺんしょうにんごろく)」が江戸時代に刊行されています。
一遍の教えは「時宗(じしゅう)」と呼ばれ、主に地方の武士や農民の支持を受けました。時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)です。
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やがて法華経(ほけきょう)のみが釈迦(しゃか)の正しい教えであると確信した日蓮は、難しい法華経の経典が読めなくても「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という題目(だいもく)を唱えれば救われると説きました。いわゆる「日蓮宗(にちれんしゅう、別名を法華宗=ほっけしゅう)」の始まりです。
浄土宗や浄土真宗のように静かに念仏を唱えたり(あるいは心の中で信心したり)するのではなく、自らが法華経を信仰していることを周囲に広めるという意味から、題目を唱える際には団扇太鼓(うちわだいこ)をドンドンと打ちながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と大声を張り上げるという形式が主流となりました。
日蓮は法華経のみがこの世の中を救うことができるとし、それ以外の宗教は邪教(じゃきょう)であり、邪教を信じれば自身や国を滅ぼすことになると他の宗派を激しく攻撃するとともに、折伏(しゃくぶく)という強い信念で転宗させようとしました。このような排他性を持つのが日蓮宗の大きな特徴のひとつです。
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日蓮は「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」など多数の著書を残しています。また、日蓮宗の総本山は山梨県の久遠寺(くおんじ)です。
ところで、鎌倉を中心とする関東の武士の間で大きな勢力を持っていたのは禅宗(ぜんしゅう)でした。坐禅(ざぜん)によって自らを鍛(きた)え、布団(ふとん)の上げ下ろしや洗濯(せんたく)など、日常生活のなかで「自分のことは自分でする」という様々な厳しい修行を重ねることが武士の気風(きふう、気性や気だてと同じ意味)に合っていたからです。
鎌倉時代に我が国にもたらされた禅宗には二つの宗派がありましたが、それぞれ対照的な広がりを見せることになりました。栄西(えいさい)による「臨済宗(りんざいしゅう)」と、道元(どうげん)による「曹洞宗(そうとうしゅう)」です。
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先述したように禅宗が武士の気風に合ったこともあって臨済宗は幕府の保護を受け、後には京都に大本山(だいほんざん)となる建仁寺(けんにんじ)を建立しました。臨済宗では、座禅に打ち込みながら師から示される公案(こうあん、設問のこと)を解くために懸命に努力するなかで悟りを開くという「公案問答(こうあんもんどう)」を説きました。
栄西が亡くなった後も臨済宗は幕府の保護を受け、南宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元(むがくそげん)が招かれました。蘭渓道隆は5代執権の北条時頼に招かれて鎌倉の建長寺(けんちょうじ)の開山(かいざん、ここでは初代住職という意味)となり、無学祖元は8代執権の北条時宗に招かれて、同じく鎌倉の円覚寺(えんがくじ)の開山となりました。
栄西が残した著書は「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」の他に「喫茶養生記(きっさようじょうき)」も有名です。実は、現在のようなお茶を飲む習慣を広めたのは栄西であるといわれており、喫茶養生記のなかで茶の薬効(やっこう)などが紹介されています。なお、喫茶養生記は3代将軍の源実朝(みなとものさねとも)が二日酔いで苦しんでいる際に、一杯の茶とともに献上されたものです。
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道元は越前(えちぜん、現在の福井県東部)に永平寺(えいへいじ)を建立して開山となり、名誉や利益を求める心である名利(めいり、または「みょうり」)の念を捨てて厳しい規律のもとに修行を行うことで、北陸地方を中心に布教を続けました。
道元は「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という著書を残しています。なお、曹洞宗は道元の弟子にあたる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって飛躍的な発展を遂(と)げたことで、現在では道元と瑩山紹瑾が「両祖(りょうそ)」と称されているほか、瑩山紹瑾が開いた総持寺(そうじじ)が永平寺と同格の大本山とされています。
ちなみに、総持寺はかつて能登(のと、現在の石川県北部)の輪島(わじま)にありましたが、明治時代に火災で焼失した後に、現在の横浜市鶴見区に移転しています。
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6人の開祖はそれぞれが天台宗を学んだことで、厳しい修行の中から選び取られた「一つの道」のみによって救われると説いています。
例えば浄土宗や浄土真宗あるいは時宗は「念仏」を、日蓮宗は「題目」を、臨済宗や曹洞宗は「禅」を自らの道としています。
それまでの仏教は、厳しい修行を積むとともに長大かつ難解な経典を読破(どくは)しなければならなかったのに対して、念仏や題目もしくは禅といったいわば「簡略版」で問題ないとした鎌倉仏教の分かりやすさが武士や庶民に門戸(もんこ)を開放し、幅広い支持を受けたと言えるでしょう。
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また、同じ頃に法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい、別名を解脱=げだつ)も山城(やましろ、現在の京都府南部)の笠置寺(かさぎでら)にこもって厳しい修行を続け、明恵とともに南都仏教の復興に力を注ぎました。
その後、律宗では俊芿(しゅんじょう)が宋に渡って戒律を学び、京都の泉涌寺(せんにゅうじ)を復興して新たに天台・真言・禅・律の諸宗兼学(けんがく)道場とすると、後鳥羽(ごとば)上皇をはじめ天皇や公家あるいは武家など多くの信者を得ました。
この他、奈良の西大寺(さいだいじ)を復興した律宗(りっしゅう)の叡尊(えいぞん、別名を思円=しえん)やその弟子の忍性(にんしょう、別名を良観=りょうかん)らは、戒律を重んじるとともに貧しい人々や病気を救済して治療したほか、土木工事などの社会福祉事業に力を尽くしました。
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学問や文芸の世界でも新しい動きが始まりました。和歌の世界では、西行(さいぎょう)が出家後に諸国を渡り歩くなかで「山家集(さんかしゅう)」をまとめたり、後鳥羽上皇の勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編集すること)によって「新古今(しんこきん)和歌集」が、藤原定家(ふじわらのさだいえ、もしくは「ていか」)や藤原家隆(ふじわらのいえたか)らによって編集されたりしました。
新古今和歌集は、平安時代までの伝統を受け継ぎながらも技巧的な表現や洗練された歌風が広く受けいれられ、武士の間にも広まりました。鎌倉幕府3代将軍の源実朝もその一人で、万葉調の歌を集めた「金槐(きんかい)和歌集」を残しました。なお「金」は鎌倉の「鎌」の偏(へん)を、「槐」は大臣の別称を表しています。
また藤原定家は、発表から約200年が経過して写本によって内容が異なっていた紫式部(むらさきしきぶ)の「源氏物語」を校訂(こうてい、古書などの本文を諸本と比べ合わせて正すこと)したほか、彼がまとめた写本は後世の人間に配慮して新たなフォントを開発し、文字の連綿(れんめん)を廃して読みやすくするという工夫もしています。
現代の私たちが源氏物語を気軽に読むことができるのは、定家の功績であると言っても差し支(つか)えないでしょう。
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「保元(ほうげん)物語」や「平治(へいじ)物語」などの軍記物は語り物の形態による新しい形式をもち、なかでも平氏の興亡をつづった「平家物語」は、琵琶法師(びわほうし)によって平曲(へいきょく)として語られたことによって、文字の読めない人々にまで広く親しまれました。
説話文学としては、院政期に成立した今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)とともに「日本三大説話集」と称される「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」や「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」が成立しています。
随筆としては、鴨長明(かものちょうめい)が天変地異や戦乱が続く世の中の無常さを「方丈記(ほうじょうき)」にまとめたほか、鎌倉時代末期には吉田兼好(よしだけんこう、別名を兼好法師=けんこうほうし)による独自の広い見聞や観察眼によって「徒然草(つれづれぐさ)」が生まれました。
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また、関白九条兼実の弟で天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職のこと)の慈円(じえん)は、承久の乱(承久の変)の直前までの道理による独自の歴史論を展開した「愚管抄(ぐかんしょう)」を著しました。
一方、武士の間でも承久の乱後に学問を好む風潮が高まったことで、北条泰時の甥(おい)にあたる北条実時(ほうじょうさねとき)が、鎌倉の港であった金沢(かなざわ)の地に私設の図書館となる「金沢文庫(かなざわぶんこ)」を建て、和漢の優れた書を集めて学問に励みました。また、鎌倉時代中期までには幕府の歴史を編年体でつづった「吾妻鏡(あづまかがみ)」も成立しています。
なお、鎌倉時代の末期には宋の朱熹(しゅき)によって広まった儒学(じゅがく)の一つである「宋学(そうがく、別名を朱子学=しゅしがく)」が伝わりました。宋学における臣下として守るべき道義や節度などのあり方を示した大義名分論(たいぎめいぶんろん)は後世に大きな影響を与え、当時の討幕運動に対する思想的な支柱となりました。
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度会家行は著書である「類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)」の中で、従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ、別名を反本地垂迹説)を唱えています。
鎌倉幕府成立前に起きた源平の争乱によって、東大寺の大仏殿が消失するなど奈良の諸寺は大きな被害を受けましたが、その復興のために重源(ちょうげん)が大勧進職(だいかんじんしょく)として必要な資金を集めたことで、南宋の寺院を基本とした大仏様(だいぶつよう)の建築形式で東大寺が再建されました。
大仏様は天井を張らずに全体的な構造美を示すことによって、大陸的な雄大さと豪快な力強さを表現しており、代表的な遺構(いこう、昔の建造物における残存物のこと)として東大寺南大門(なんだいもん)が挙げられます。
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また、平安時代以来の我が国の伝統建築様式である和様(わよう)に大陸伝来の様式を巧みに取り入れた折衷様(せっちゅうよう)も生み出されました。河内(かわち、現在の大阪府河内長野市)の観心寺金堂(かんしんじこんどう)などが代表例として挙げられます。
仏像彫刻では、東大寺や興福寺の再建に参加した奈良仏師(ならぶっし)の運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)父子や快慶(かいけい)らによって、奈良時代の彫刻の伝統を受け継ぎながらも写実的で力強くかつ豊かな人間味あふれる名作を残しました。
当時の代表的な作品としては、東大寺南大門の金剛力士像(こんごうりきしぞう)などが挙げられます。この他、一般には「鎌倉大仏」と呼ばれ親しまれている鎌倉の高徳院(こうとくいん)の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)も鎌倉時代につくられたとされています。
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絵画では、平安時代末期に始まった絵巻物(えまきもの)が引き続き盛んにつくられ、人物の一代記を描いた「一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)」や、合戦における戦いぶりを描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」、「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」などの作品が生まれました。
また、個人の肖像(しょうぞう)を写実的に描いた似絵(にせえ)もつくられ、藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれました。この他、高僧の肖像画である頂相(ちんぞう、または「ちんそう」)も鎌倉時代の中頃から始まりました。
宋や元の書風が伝えられた書道では、伏見(ふしみ)天皇の皇子であった尊円法(そんえんほう)親王によって平安時代以来の世尊寺流(せそんじりゅう)を基本とした「青蓮院流(しょうれんいんりゅう)」が新たに創始されました。
工芸面においては、武家政権の影響を受けて武器や武具の製作技術が進歩したことで、刀剣では備前(びぜん、現在の岡山県南東部)の長船長光(おさふねながみつ)や京都の粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)、鎌倉の岡崎正宗(おかざきまさむね)らが名作を残しました。
また、宋の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が輸入されたことで、尾張(おわり、現在の愛知県西部)の瀬戸焼(せとやき)や常滑焼(とこなめやき)、備前の備前焼といった陶器(とうき)の生産も盛んとなりました。
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