しかし、翌昭和12(1937)年1月の第70回帝国議会において、立憲政友会の浜田国松(はまだくにまつ)議員が軍部の政治への干渉を痛烈に批判した演説を行ったことをきっかけに騒動が起きました。
演説を聞いた寺内寿一(てらうちひさいち)陸軍大臣が「軍を侮辱(ぶじょく)しているのではないか」と答弁すると、すかさず浜田議員が「私の発言のどこが侮辱なのだ」と切り返し、寺内陸相が「侮辱したように聞こえた」とたたみかけると、浜田議員は一歩も引かずに「速記録を調べて侮辱した言葉があれば私は腹を切って謝罪するが、なかったら君が割腹(かっぷく)せよ」と激しく詰め寄ったのです。
浜田議員と寺内陸相とのいわゆる「腹切り問答」に議場は大混乱となり、翌日から停会しました。激怒した寺内陸相は広田首相に議会の解散を要求し、受けいれられなければ辞職すると言い張りました。
首相らは何とか寺内陸相を説得しようとしましたが不調に終わったため、広田内閣は閣内不統一を理由に総辞職に追い込まれました。
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しかし、軍部に抑えが利く人物として宇垣が推薦(すいせん)されたということは、自分たちの主導で政治を行うことを画策していた軍部にとっては都合の悪いことでした。このため、石原莞爾(いしわらかんじ)大佐(当時)ら陸軍中堅層は宇垣内閣誕生を阻止すべく動きました。
石原らは先の広田内閣で復活した軍部大臣現役武官制に目を付け、宇垣内閣に陸軍大臣に相応(ふさわ)しい人物を一切推薦しなかったのです。このとき、宇垣は陸軍大将でありながらも予備役であったため、現役武官制が災(わざわ)いして自身が陸相を兼任することができませんでした。
結局、宇垣は組閣を断念し、翌2月に同じ陸軍大将で予備役の林銑十郎(はやしせんじゅうろう)が内閣を組織しましたが、宇垣一成による組閣の失敗は、軍部の政治的発言力の強さを思い知らされると同時に、軍部大臣現役武官制が倒閣の手段として非常に有効であることを明らかにする結果となりました。
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林内閣のもとで昭和12(1937)年度予算が例年どおり審議されましたが、成立直後の3月31日に林が突然衆議院を解散しました。内閣にとって予算成立という「ご馳走(ちそう)」を賞味した直後の解散劇だったことから「食い逃げ解散」と呼ばれましたが、翌月に行われた総選挙の結果は林内閣にとって芳(かんば)しいものではなく、政党からの退陣要求が日増しに強くなりました。
結局、林内閣は同年6月に総辞職し、成立してからわずか4か月余りで退陣を余儀なくされました。任期が短く大した実績を残せなかったことから、後には林自身の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」と皮肉られています。
さて、林内閣の後には当時の貴族院議長が内閣総理大臣を務めることになりましたが、かつての五摂家の筆頭という家柄で、しかも本人自身は皇室の血を引く人物として、元老(げんろう)や軍部のみならず一般民衆まで国民各層の大きな期待を集めていました。
彼こそが近衛文麿(このえふみまろ)だったのです。
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五摂家の筆頭は近衛家(このえけ)でしたが、その血筋は江戸時代に一旦は断絶したものの、外孫(=他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴さが強化されていました。
やがて明治維新を迎えると五摂家は華族となり、爵位(しゃくい)としては最高の公爵(こうしゃく)に叙(じょ)せられるとともに貴族院議員を務めました。そんな家柄の嫡男(ちゃくなん)として生まれた近衛文麿は、若い頃から端正(たんせい)な風貌(ふうぼう)かつ颯爽(さっそう)とした長身を持ち、大衆的な人気を得ていました。
そして昭和12(1937)年6月に、近衛文麿はついに内閣総理大臣となりました。血統が異なるとはいえ、藤原氏の末裔(まつえい)が国政の最高責任者として君臨する日がやって来たことに、悠久(ゆうきゅう)の日本の歴史の大きな流れを実感した人々は当時もさぞかし多かったことでしょう。
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東京帝国大学に進学して哲学を学んでいた若き日の近衛文麿は、その後に京都帝国大学に転学していますが、その目的は「貧乏物語」の著作を持つとともにマルクス経済学を研究していた河上肇(かわかみはじめ)に師事するためでした。
河上のもとで熱心にマルクス経済学を学んだ近衛は共産主義に大いに共鳴し、20代の頃には「私有財産制が諸悪の根源であり、財産や貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない」という論文を発表しています。
近衛はやがて昭和11(1936)年に政策集団の昭和研究会を結成しましたが、その有力メンバーには革新派の官僚や学者・評論家・ジャーナリストなどが参加し、政党関係者としては社会大衆党の幹部が多く加わりました。
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そして、近衛が首相に就任する直前の昭和12(1937)年4月には、朝日新聞の記者で後に近衛の有力なブレーンとなった、かのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実(おざきほつみ)も参加しています。
首相に就任した直後、近衛は「国内各論の融和」を理由として治安維持法に違反した共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦(たいしゃ、有罪の判決を受けた者への判決の効力を失わせる=釈放したり捜査を終了したりすること)しようと主張して、元老や重臣らの政府関係者を驚かせました。
近衛の思惑は結局実現しませんでしたが、この大赦論は皇道派の将校の救済が主な目的だったとされている一方で、大赦の対象者の多くが社会主義あるいは共産主義者の熱心な運動者であったからではないかという見方もあります。
そして、そんな彼が首相に就任した翌月に起きた「ある出来事」をきっかけとして、我が国を含む全世界を揺るがした大きな戦争へと導かれてしまうのです。
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