本能寺の変については、昔からいわゆる「黒幕」の存在が有力視されてきました。前述の羽柴秀吉や徳川家康(とくがわいえやす)、前将軍の足利義昭や朝廷、中にはカトリックのイエズス会の存在を挙げる人もいますが、私はこれらの「黒幕」がいたとは考えてはおりません。
もし黒幕の存在があれば、例えば光秀が細川藤孝・忠興父子に送った書状の中でその名前を書くことによって、細川父子に味方につくように説得できたかもしれませんし、また前述の毛利家に対しても、黒幕の存在を事前にほのめかして秀吉軍を釘付けに出来るように依頼できたはずです。もしこれらが実現していれば、光秀がわずか10日あまりで討たれてしまうようなこともなかったでしょう。
また、本能寺の変と同時期に、信長の長男である織田信忠(おだのぶただ)も光秀に攻められて自害していますが、本能寺が襲われた際には信忠が宿泊していた妙覚寺(みょうかくじ)は、まだ光秀軍に囲まれていませんでした。
信忠には京都を脱出して岐阜や大坂に向かい、父親である信長の仇を討てるチャンスが実はあったのです。しかし、信長の救援などに時間をとられているうちに光秀軍に攻められてしまい、最期には逃げ切れずに自害しました。
信忠を生かしておいては、せっかく信長を倒しても光秀の天下取りに支障が出るのは必至ですし、何よりも黒幕が存在していれば、信忠の寝所を囲まないという大失態を光秀にさせるはずがありません。この点からも、本能寺の変は「光秀の単独犯行」と考えられるのです。
さらに、仮に黒幕がいて、事前に信長の暗殺が計画されたとすれば、おそらく本能寺の変は実現しなかったとも思えるのです。なぜなら、信長という人物は稀代(きだい、めったにないという意味)の「逃げ上手」だからです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev まさかの単独犯でしたか(゜Д゜))マヂ!!!
確かに光秀ともあろう武将が3日天下というか、わずか10日で討たれてしまうのは非常に疑問に思うところでした。
となると、その計画性はどうだったのでしょうか。本能寺の変の後のことを考えずにやったとしたら、用意周到に計画したのではなく、突発的に本能寺に向かったんではないでしょうか?
そうなると、逆に怨恨説が再浮上してきそうです(^_^;)
管理人のみ閲覧できます
-
オバrevさんへ
黒田裕樹 単独犯という結果は確かに意外ですが、数々の状況証拠、特に信忠に関する数々の「失態」が如実に物語っていますね。
本能寺の変は基本的に無計画だったと思われますが、怨恨の場合にはかえって計画性になるのではという気がしますので、やはり「ついていけない」という不信感が爆発したのではないかと考えております。
アキ 「逃げ上手」ww
現代でも思い浮かぶ人がいますが、なんだか狡い感じですねw
どんな逃げ様をするのか気になります。
marihime 黒田さんこんばんは☆
熱のこもったやりとりが続いているようですねσ(゚ー^*)
私も黒幕説には賛成しないのですが、本能寺の変そのものは突発的ではなかったと思います。
光秀は権謀術策でも当時としては秀でており、周りの状況や己の置かれている立場は理解していたと思います。
ただ、光秀自身がわかっていなかったことは、他の武将から支持されるような人望がなかったということではないでしょうか。
ここには光秀の錯覚があるように思えます。
光秀に人望があれば、細川親子や上杉も協力したかもしれないと思います。
アキさんへ
黒田裕樹 逃げ上手の人は確かに狡賢い印象がありますね(笑)。
信長の逃げ方は鮮やかですよ(^^ゞ
明日(6日)の朝の更新をお楽しみに!
marihimeさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに光秀には残念ながら人望がなさそうですね。
味方に付けるには、後ろ盾の他に人望が必要でしょうし、人望がなければ後ろ盾の存在は必須ですよね(どこかの政党の誰かさんのような…?)。
ご意見有難うございました。
かすやぶひ はじめまして、歴史好きには面白い内容で読ませてもらっています。
かなりの状況判断ですね。根回しをしていない行動なのは間違いない。細川や筒井、長曾我部に協力を事後でしたんでしたっけ?
人望か・・・
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問&コメント有難うございます。
仰るとおり、根回しもせずに事後承諾で物事を進めようとしているところが、それまでの光秀からすれば不可解なところです。
やはり人望がなかったという点がマイナスだったのか、追いつめられて突発的だったのか…。判断が難しいですね。
初めまして
あひるの代理人 初めまして。
私も織田信長を含め歴史にまつわるブログを書いています。良かったら遊びに来てください。
1570年、信長が朝倉義景を攻めるために金ヶ崎(かねがさき、現在の福井県敦賀市)まで攻め込んだ際に、妹の婿(むこ)である近江国の浅井長政(あざいながまさ)が信長を裏切って攻め寄せました。このままでは挟み撃ちにあうところでしたが、信長は機転を利かせてわずかな手勢で京都まで一気に逃げ切り、九死に一生を得たことがありました。
通常であればそれまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命の方が大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
このような「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して、逃げおおせた可能性が極めて高いのです。
また、本能寺の変が起きたのは旧暦の6月1日の深夜でした。今私たちが使っている新暦とは違い、旧暦の1日は必ず新月(しんげつ)であり、月の出ない完全な闇夜(やみよ)でした。信長の暗殺を事前に計画しておらず、光秀自身が単独で行動し、さらに闇夜であったがゆえに、光秀は信長に気づかれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが可能だったのです。
光秀は信長を討つことは出来ましたが、単独で行動に及んだゆえに、結局は光秀に味方をしようとする武将は現れませんでした。そのうえ、中国地方から常識で考えられないスピードで「大返し」(おおがえし)してきた秀吉軍と、京都の山崎(やまざき)で戦うことになりました。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。