昭和7(1932)年に社会民衆党を脱党した赤松克麿(あかまつかつまろ)は日本国家社会党を結成し、資本主義体制の打破と国際的な領土再分割を綱領に掲(かか)げました。なお、同年には他の無産政党が大合同を行って社会大衆党を結成しています。
昭和8(1933)年には治安維持法違反などで獄中にあった日本共産党の最高幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明書を発表して、ソ連のコミンテルンが日本共産党に指示した「君主制の廃止」が日本の現実にそぐわないことから、共産党の組織が大衆から離れてしまったことを厳しく批判しました。また、佐野らが天皇を民族的統一の中心とした独自の「一国社会主義」を提起したことから、獄中の大半の党員が同じように転向するなど、その影響は大きいものがありました。
なお、佐野らのように転向したのも、あるいは非転向を貫いて第二次世界大戦後に釈放された人物が存在したのも、いずれも治安維持法で「最高刑が死刑」とされていながら、実際には一人も死刑に処されなかったからという事実があることを忘れてはいけません。
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マルクス主義が次第に退潮していく中で、保田與重郎(やすだよじゅうろう)が主宰(しゅさい)した日本浪曼(ろうまん)派では、日本の近代化の諸現象を否定的に評価する反近代主義の立場から日本民族のもつ伝統美やアジア主義に注目し、民族的美意識を追求した「日本への回帰」という傾向を代表するようになりました。
また、昭和9(1934)年に陸軍省によって発行された「国防の本義と其(その)強化の提唱(=陸軍パンフレット)」では社会主義につながる統制経済など国防優先の国会改造が提唱されましたが、政党政治家が反対を唱える一方で、国家社会主義を標榜(ひょうぼう、主義や主張などをはっきりと示すこと)した赤松克麿や社会大衆党らはこれを支持しました。
こうした陸軍パンフレットをめぐる動きをきっかけとして、陸軍が政治への介入をより深め、批判した勢力に対する取り締まりを強化するようになるのですが、その批判した人物のひとりに先述した美濃部達吉(みのべたつきち)がいました。
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昭和8(1933)年の帝国議会において、京都帝国大学法学部教授の滝川幸辰(たきがわゆきとき)が著した「刑法読本」や「刑法講義」が国家を破壊する著作であるとして問題とされました。これを「滝川事件」といいます。
滝川教授の著作が問題にされた背景には、前年の昭和7(1932)年に中央大学で講演した「復活に現われたるトルストイの刑罰思想」における内容が「国家が刑罰を加えるのは不当である」とみなされ、国家の否認につながるものであると非難されたというのがありました。
当時の斎藤実(さいとうまこと)内閣の文部大臣であった鳩山一郎(はとやまいちろう)は「刑法読本」や「刑法講義」を発禁処分としたほか、京大に滝川教授の退官を要求しましたが、京大法学部教授会が「大学の自治への介入」として拒否したため、政府は文官分限令を発動して滝川教授を休職処分としました。
なお、滝川教授は休職処分後に京大を退官しましたが、第二次世界大戦後に復帰して後に京大総長を務めました。また、京大に一連の処分を迫った鳩山一郎は戦後に内閣総理大臣を務めたほか、彼の孫にあたる鳩山由紀夫(はとやまゆきお)も同様に首相となった経験があります。
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天皇機関説は憲法学説の一つとして我が国で受けいれられてきましたが、先述のとおり昭和10(1935)年2月に開かれた帝国議会における貴族院の本会議において、軍出身の菊池武夫(きくちたけお)議員が「天皇機関説は国体(=国家としての体制のこと)に反するものである」と非難したことから大きな問題となりました。いわゆる「天皇機関説問題」(または「天皇機関説事件」)です。
当時は天皇を中心とする国家社会主義が軍部を中心に広がりを見せており、天皇を絶対視するあまり、天皇機関説が統治権の主体を国家とみなしていることが「不敬」であるとされてしまったのです。
貴族院や衆議院は同年3月に天皇機関説を排する決議を採択したほか、当時の岡田啓介(おかだけいすけ)内閣も世論の圧力に屈して「国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)」を出したことによって、昭和天皇も当然のものであると思われていた天皇機関説は国家によって完全に否定されてしまいました。なお、美濃部達吉は事件を受けて貴族院議員を辞職しています。
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しかし、政友会の目論見(もくろみ)は翌年の総選挙で惨敗して失敗に終わったばかりか、岡田内閣の信任に焦った陸軍の皇道派によって、先述のとおり二・二六事件が引き起こされるという悲劇を生んでしまいました。
さて、自由主義的な思想への弾圧はこの後も続き、政府による植民地政策を批判した矢内原忠雄(やないはらただお)の「国家の理想」や自由主義経済学者の河合栄次郎(かわいえいじろう)の「ファシズム批判」、歴史学者の津田左右吉(つだそうきち)の「神代史の研究」などの著書が発禁処分となりました。
また、昭和12(1937)年にはコミンテルンが指令した人民戦線方式(注:人民戦線とは自由主義から無政府主義まで幅広く結集した組織のこと)による活動を行った容疑で日本無産党の多数が検挙されたほか、翌昭和13(1938)年には関係者として経済学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)らが検挙されました。これを「人民戦線事件」といいます。
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それぞれの著書は、戦後を迎えてから「国民思想の教化を意図したもの」として否定的に扱われることが多いようですが、我が国古来の伝統を擁護(ようご)しようとした思想書であったとする見方もあるようです。
ところで、昭和に入って様々な思想が否定されるという動きの中で、明るい話題もありました。昭和6(1931)年にはラジオの聴取者が100万人を突破し、各新聞も発行部数を増やしました。この時期においても、国民の「知る権利」そのものは確実に広がりを見せていたのです。
また昭和12(1937)年には、当時の広田弘毅(ひろたこうき)首相の発案によって科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を残した人々に授与される文化勲章(くんしょう)が制定され、物理学者の長岡半太郎(ながおかはんたろう)に初代文化勲章が与えられました。
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