高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相の積極財政によって、我が国は金融恐慌(きょうこう)や昭和恐慌など昭和初期に連続して発生した不況からようやく脱出できましたが、それまでの大きな歴史の流れが我が国に国家社会主義思想をもたらしていました。天皇を中心とはしながらも、国家社会主義の本質は「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して資本を人民で共有する」という点にあり、ソ連による共産主義と何ら変わるものではなかったのです。
国家社会主義は、当時の「エリート中のエリート」でありながらも決して裕福ではなかった若手の青年将校たちが、それゆえに富裕層である地主や資本家あるいは財閥(ざいばつ)に対してやるせない怒りを向けるとともに、彼らと癒着(ゆちゃく)している(と思い込んでいた)政党政治をも敵視したことによって、大きな広がりを見せるようになりました。
我が国における国家社会主義の拡大は、やがて陸軍内に「皇道派」と「統制派」という二つの大きなグループをもたらしました。このうち皇道派が荒木貞夫(あらきさだお)や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)などを中心として、直接行動で既成の支配層を打倒することによって国家体制の転換を狙った一方、永田鉄山(ながたてつざん)や東條英機(とうじょうひでき)らを中心とした統制派は、革新官僚と結んで合法的に総力戦という名の社会主義体制を実現しようとしていました。
昭和10(1935)年には陸軍省内で執務中の統制派の永田鉄山が皇道派の陸軍中佐に殺害されるなど、両派は激しい派閥争いを繰り広げていましたが、「天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行する」という目的は両派共通のものでした。
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これを岡田内閣打倒の好機と見た政友会が昭和11(1936)年1月に内閣不信任案を帝国議会に提出したのに対し、岡田内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ましたが、同年2月20日に行われた投票結果は政権与党である立憲民政党の勝利に終わり、政友会は惨敗しました。
与党の躍進(やくしん)という結果を受け、岡田内閣の政権基盤は安定化すると思われましたが、選挙結果に衝撃を受けた皇道派による「直接行動」によって、選挙からわずか6日後に我が国史上稀(まれ)に見る惨劇が起きてしまうのです。
昭和11(1936)年2月26日未明、皇道派の一部青年将校が「昭和維新」を目標として第一師団などの兵約1,400名を率いて決起し、首相の岡田啓介や大蔵大臣で元首相の高橋是清、内大臣で同じく元首相の斎藤実(さいとうまこと)、侍従長(じじゅうちょう、天皇・皇后の側近として仕える侍従の長官)の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)らを襲撃しました。
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前代未聞の大事件を受け、将校たちに同情する姿勢を見せた陸軍首脳部は、彼らの意図を認めるか否(いな)かで動揺(どうよう)しましたが、ご自身にとってかけがえのない「股肱(ここう、最も頼りになるという意味)の臣」を失われた昭和天皇は激怒され、当時は岡田首相が死亡したと伝えられたことで内閣不在の緊急事態ということもあり、自らのご意思で事件の解決に乗り出されました。
二・二六事件は昭和天皇の強いご指示による勅令(ちょくれい、天皇による命令のこと)が出され、決起した将校たちは反乱軍となり、東京に戒厳令(かいげんれい)が出された後に事態は収拾へと向かいました。
その後、事件に関係した軍人や民間人の多くが検挙され、死刑を含む厳しい処分が行われましたが、処刑された中には「日本改造法案大綱」を著して軍人のクーデターによる国家社会主義の実現をめざした民間人の北一輝(きたいっき)もいました。
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二・二六事件によって岡田内閣は総辞職し、かわって広田弘毅(ひろたこうき)が首相となって新たな内閣を組織しました。挙国一致内閣として成立した広田内閣でしたが、陸軍の主導権を握った統制派の影響は避けられず、その目標に経済の国家統制強化をめざした「広義国防国家」を掲げました。
また、陸軍の強い要求を受けた広田内閣が廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を復活させたため、軍部の政治に対する影響力をさらに強めることになってしまいましたが、このことが大東亜戦争後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において、文官でただ一人A級戦犯にされて死刑となった理由の一つではないかといわれています。
さて、二・二六事件に関しては反乱軍とされた青年将校たちへの同情心が現代においても深いものがあるようですが、事件の本質そのものは、金融恐慌や昭和恐慌の影響によって貧富の差が拡大したことで、「貧しい者が富める者の存在を憎む」という共産主義思想が「天皇を中心とする社会主義」である国家社会主義思想へと姿を変え、その流れをくむ皇道派が起こしたクーデターでもありました。
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極端な言い方をすれば、皇道派が自己の理想を現実のものとするために「天皇を中心とした国家社会主義体制をつくる」→「それを邪魔する政治家や官僚は国賊である」という、ある意味一方的な考えに走ったことで事件が起きたとも判断できるのです。
しかし、皇道派の青年将校たちには国賊に思えた政治家や官僚は、同時に「昭和天皇にとってかけがえのない股肱(ここう)の臣」でもありました。また、当時は岡田首相も暗殺されたと思われており、内閣不在の異常事態であったからこそ、クーデターに激怒された昭和天皇が立憲君主制の原則を破られて、お自ら事件の鎮圧に乗り出されたのです。
二・二六事件を起こした青年将校たちへの同情論が多いのも理解できなくはないですが、股肱の臣を一度に失われた昭和天皇のお怒りやお悲しみも私たちは同時に考えなければならないでしょう。
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