義経による類稀(たぐいまれ)な戦術(=戦いに勝つための具体的な方法のこと)があったればこそ平氏を滅亡できたのであり、その功績は確かに大きいものがありました。しかし、頼朝は平氏滅亡を喜ぶどころか、義経による「信じがたい失策」に対して激怒しました。なぜならば、義経が天皇であることを証明する大事な「三種の神器」のすべてを取り戻すことができなかったからです。
頼朝個人としては、父の源義朝(みなもとのよしとも)の仇(かたき)である平氏が滅亡して嬉しくないはずがありません。しかし、彼は自分の利害よりも武士全体の利益を優先し、そのための「戦略(=戦争に勝つための総合的あるいは長期的な計略のこと)」を考える政治家でもありました。
関東で力をつけたうえで平氏を滅亡寸前にまで追い込んだ頼朝でしたが、それはあくまで軍事力のみの結果であり、武士に土地の個人所有を認めさせるといった「武士のための政治」を行うにはまだ力不足でした。
そこで頼朝は、当時は形式化してはいたものの、荘園などを監視する立場である朝廷との交渉によって「武士のための政治」を実現させようと考えており、その際に切り札となるのが「三種の神器」だったのです。
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この点に目をつけた頼朝は、三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせることによって、自身が目指した「武士のための政治の実現」に大きく前進しようと考え、義経に対して「平氏滅亡よりも三種の神器の奪回を優先させて、どんなことがあっても取り戻してこい」と厳命した可能性が高いのです。
ところが、軍事的センスは高いものの、頼朝の政治的センスが全く理解できなかった義経が平氏滅亡に気をとられているうちに、清盛の未亡人が安徳天皇とともに三種の神器を抱えて海の中へ飛び込んでしまいました。
神器のうち勾玉(まがたま)と鏡は取り戻せましたが、草薙(くさなぎ)の剣は海の底に沈んでしまい、ついに取り戻せなかったのです。これでは神器を切り札として後白河法皇に武士の要求を認めさせるどころか、失態を問われることでかえって頼朝の地位が危うくなる可能性すらありました。
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これに加えて、義経はさらに致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇からの検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当する役職のこと)への任官を勝手に受けてしまったのです。
なお、任官後の義経は「九郎判官(くろうほうがん)」と呼ばれましたが、これが後に「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉を生むことになります。
義経による「朝廷からの任官を受ける」行為は、実は頼朝のそれまでの血のにじむような努力を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか。
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一方、官位は朝廷から授かるものですから、それを頼朝の承認もなく受け取るということは、頼朝の権威を丸潰(つぶ)れにしてしまいかねない「愚かな行為」なのです。それなのに、よりによって頼朝の実の弟である義経があっさりと朝廷から勝手に官位を受けてしまったのですから、頼朝にとってはたまったものではありません。
現実に、この後で頼朝の家臣の多くが「弟の義経様が受け取るのであれば」といわんばかりに朝廷から次々と任官を受けてしまいました。これらに対する頼朝の嘆きや怒りは凄まじいものであったと伝えられています。
しかし、義経自身は三種の神器と同様に「自分が犯した大きなミス」に全く気がついていませんでした。後に頼朝に送った手紙において「自分が朝廷の任官を受けることは源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいです。
「政治家」の頼朝と「軍人」の義経とでは、考えがまるで異なるのはむしろ当然とも言えました。この二人の間を取り持つ優秀な人材がいなかったことがお互いの意思の疎通(そつう)を欠かせて、ついには兄弟で対立するという結果を生んでしまったのです。
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そればかりでなく、頼朝によって自分の領地をすべて取り上げられ、暗殺までされかけた義経はついに頼朝との全面対決を決意しました。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)を強引にもらうと、九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに船出をしましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。
かつて屋島の戦いにおいて嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたときと比べ、何という違いでしょうか。これ以降、それまでの幸運から見放された義経には苦難の道が続くことになります。
精鋭の大半を失った義経は、わずかな手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って落ちのびました。なお、この逃亡の道中での北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳(かんじんちょう)」の伝説が残されており、現代でも歌舞伎などを通じて有名になっています。
一方、義経が没落していったのと対照的に、後白河法皇の「大きなミス」につけ込むことで、頼朝の悲願であった「武士のための政治」を達成できる「大きなチャンス」がめぐってきました。
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義経が去った後の元暦2(1185)年旧暦11月、頼朝は舅(しゅうと)である北条時政を筆頭とする大軍を京都へ送り、後白河法皇に迫りました。
「法皇様の命令によって平氏滅亡に尽力したこの頼朝を、こともあろうに討てとはどういうおつもりですか?」
後白河法皇をはじめとする朝廷は恐怖に震え上がり、頼朝側をなだめるためにやむなく二つの権利を認めました。後世に名高い「守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置」です。
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また、地頭は公的に認められた土地の管理人ですが、その任命権が守護を含めて頼朝側にあるために、武士が初めて自分の土地を公的に所有できる道を拓(ひら)くことになりました。
この他にも全国の土地から一反(いったん)ごとに五升(ごしょう)の米、すなわち全体の5%を兵糧米(ひょうろうまい)として徴収できる権利を獲得しました。
これによって公領や荘園に対しても武士の手が伸びることになり、将来の「下地中分(したじちゅうぶん)」あるいは「半済(はんぜい)」につながっていくことになります。
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一方、その後の義経一行は何とか藤原秀衡のところまでたどり着くことができました。秀衡は義経の戦術の巧(たく)みさを来るべき頼朝との戦いの切り札にしようと考え、義経を手厚く保護しましたが、一年も経たないうちに秀衡が病死してしまいました。これも義経にとっては大きな不運だったのです。
秀衡の後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は父ほどの器量を持っておらず、頼朝からの「義経を殺せば藤原氏の安泰は保証する」という誘いに乗ってしまい、文治(ぶんじ)5(1189)年旧暦閏4月に義経の住んでいた館を急襲しました。義経主従は奮戦しましたが多勢に無勢ではどうしようもなく、ついに義経は妻子とともに自害して果てました。わずか31歳の若さでした。
なお、義経の最期の際に、郎党(ろうとう、従者のこと)の武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が義経をかばって屋外で体中に矢を浴びて立ったまま死んだとされる「立往生(たちおうじょう)」の伝説が残されています。また、義経を自ら殺したことによって切り札を失った泰衡は同年旧暦9月に頼朝によって倒され、約100年続いた奥州藤原氏は滅亡しました。
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