また、瀬戸内海がある西国では海戦が多く、東国の山育ちの人間が多い源氏に対し、強力な水軍を持っている平氏の優位は動きませんでした。このようなことから、平氏と源氏との戦いは当分の間は一進一退を繰り返すであろうと思われていました。
ところが、結果として平氏は都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、頼朝の弟である源義経なのです。
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寿永3(1184)年旧暦3月、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣を敷(し)いて山を背後に軍勢を構えた平氏は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面のため常識では通れそうもない坂を馬ごと一気に下り、平氏の背後を奇襲しました。
不意をつかれた平氏は大混乱となり、一ノ谷を放棄して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得たこの戦闘は「一ノ谷の戦い」と呼ばれ、また義経が急坂を一気に下った戦いぶりは、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称(たた)えられました。
義経には常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする天才的な戦術能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平氏との大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。
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ところが、ここでも義経が自慢のスピードで奇襲をかけてきました。元暦2(1185)年旧暦2月、義経は嵐の中を少数精鋭の騎馬武者とともに荒海を馬ごと船出しました。通常なら難破してもおかしくないのですが、歴史の神様を味方につけた義経は嵐を追い風に、極めて短時間で上陸を果たすことができました。
上陸した義経軍は海岸伝いに浅瀬を馬で渡って屋島の背後に回り、安徳天皇がおられた御所を急襲しました。またしても義経に不意をつかれた平氏は、天皇を死守するためにも逃げる以外に選択肢がなく、屋島も放棄せざるを得なかったのです。なお、この戦闘は「屋島の戦い」と呼ばれています。
ちなみに、源氏の武者である那須与一(なすのよいち)が平氏所有の船に立てられた日の丸が描かれた扇の要(かなめ)を見事に射抜(いぬ)いたという、平家物語の有名なエピソードはこの際のものです。このエピソードこそが、後の平氏の運命を物語っていたように思われてなりません。
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それに比べ、本格的な海戦の経験のない源氏の不利は大きく、さすがの義経も苦戦するかと思われたのですが、いざフタを開けてみれば義経の完勝で終わりました。元暦2(1185)年旧暦3月に行われたこの戦闘は「壇ノ浦の戦い」と呼ばれていますが、なぜ義経は未経験の海戦で勝つことができたのでしょうか。
実は、義経は平氏の軍船の操縦者をことごとく射殺することにより、敵の船を動けなくしてしまったのです。船の操縦者は殺してはいけない、というよりそもそも戦いに参加していないというそれまでの常識を打ち破る、まさに「コロンブスの卵」的な義経の柔軟な発想でした。
船が動かなくては勝てるはずがありません。平氏側の武将も奮戦して一時は義経を追いつめ、この際に義経が「八艘(はっそう)飛び」で難を逃れるという場面もありましたが、最終的には敗北し、あれほどの栄華を誇った平氏にも最期の時がやって来ようとしていました。
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抱き上げられた安徳天皇が「私をどこへ連れて行くのか」と問いかけられると、二位尼は涙ながらに「弥陀(みだ)の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じました。
その後、平氏一門の女性や武将たちも、安徳天皇に続くかのように次々と入水(じゅすい)しました。生き残った武将も源氏に捕えられてそのほとんどが処刑され、平治の乱の勝利以来、約25年続いた平氏による政権はついにその幕を閉じたのです。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)には滅びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」。(「平家物語」より)
哀切極まる平氏の最期には、万感胸に迫るものがありますね。
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