どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰えますし、不可抗力な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平氏の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不幸が襲うようになりました。
まずは人材不足が平氏を悩ませました。清盛の長男で将来を期待されていた平重盛(たいらのしげもり)が、父に先立って治承3(1179)年に42歳で亡くなり、娘婿(むすめむこ)にあたり、院政を行われるはずだった高倉(たかくら)上皇も治承5(1181)年旧暦1月に崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。
そして、何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって同年旧暦閏(うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平氏の新たな棟梁となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平氏による政権の将来に暗雲が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
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さらに平氏を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。治承4(1180)年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次いだばかりか、この状態が数年も続くという騒ぎになりました。これを飢饉が深刻化した当時の年号から「養和(ようわ)の大飢饉」といいます。
仏敵となったのは火の勢いがたまたま強かったのが理由であり、ましてや大飢饉の責任が平氏にあるはずもないことです。しかし、当時の人々は「飢饉は大仏を焼いたタタリであり、すべての原因は平氏にある」と固く信じており、平氏への恨みの声がますます高くなりました。
それでも平氏の武力や経済基盤はまだまだ盤石(ばんじゃく)であり、当面は平氏の天下が続くものと思われていましたが、彗星(すいせい)のように現れた源氏の若武者によって、寿永2(1183)年に平氏はついに都落ちを余儀(よぎ)なくされました。では、その若武者とは誰でしょうか。少なくとも源頼朝やその兄弟ではありません。
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政治家向きの頼朝とは違って、義仲は寿永2(1183)年旧暦5月に越中(えっちゅう、現在の富山県)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で10万の大軍を率いた平氏を破るなどの戦上手(いくさじょうず)でした。ちなみにこの戦いは「倶利伽羅峠の戦い」と呼ばれており、平氏の総大将は富士川の戦いで大敗した平維盛でした。こんなところにも平氏の人材不足がうかがえます。
倶利伽羅峠の戦いに勝って意気上がる義仲が京都に迫ると、身の危険を感じた平氏は同年旧暦7月に安徳天皇とともに都落ちをしましたが、この際に院政を行っておられた後白河法皇を一緒にお連れできなかったことが、後々まで尾を引く結果となりました。
一方、京都に凱旋(がいせん)した義仲でしたが、彼の軍勢はいわゆる「寄せ集め」なうえに、何の準備もせずいきなり入京したため、その日の食糧にも欠く有様でした。そんな軍勢が、飢饉の爪痕(つめあと)が残っているとはいえ他国に比べれば裕福な京都に入ったらいったいどうなるでしょうか。
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京都の人々は平氏による横暴を確かに憎んでいましたが、その平氏ですら略奪行為はありませんでした。京都での評判を一気に落としてしまった義仲は、安徳天皇が都落ちなされた後に天皇の跡継ぎをどうするかについて後白河法皇と争うなど、政治的にも上手くいきませんでした。
義仲の将来に不安を感じられた後白河法皇は密(ひそ)かに頼朝と連絡をとられて、頼朝の流罪前の官位を回復させ、頼朝に義仲を討つようにうながされました。なお、官位の回復と同時に、頼朝は後白河法皇から東国での支配権を事実上認められました。
寿永2(1183)年旧暦10月において、それまで「反乱軍」扱いだった頼朝の勢力が朝廷から正式に認められたことになります。これを「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ、宣旨とは天皇の命令を伝える文書のこと)」といいます。
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追いつめられた義仲は、同年旧暦11月に後白河法皇らを幽閉したほか、翌寿永3(1184)年旧暦1月15日には自分を無理やり征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)に任じさせました。
しかし、その直後の同年旧暦1月20日、義仲は京都の宇治で範頼や義経の軍勢と激しく戦ったものの敗れ、義経が後白河法皇のお身柄を確保しました。これを「宇治川の戦い」といいます。
義仲は自らの根拠地である北陸への脱出をはかりましたが、近江(おうみ、現在の滋賀県)の粟津(あわづ、現在の滋賀県大津市)で大軍に囲まれて討ち死にしました。享年(きょうねん)31歳でした。
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源義仲は以仁王の子である北陸宮(ほくろくのみや)を推挙しましたが、結局は高倉上皇の子の尊成親王(たかひらしんのう)が82代の後鳥羽(ごとば)天皇として4歳で即位されました。
しかし、天皇であることを証明する「三種の神器(じんぎ)」が平氏によって持ち去られていたため、後白河法皇はご自身の「治天(ちてん)の君(きみ)」としての権威で後鳥羽天皇を強引に即位させました。
また、後鳥羽天皇が即位されたことで、安徳天皇と同時にお二人の天皇が同時期に存在されることになりました。すなわち、この後に平氏が滅亡して安徳天皇が崩御されるまで約1年半のあいだ、鎌倉時代の末期から室町時代の初期における「南北朝時代」と同じ状態になっていたのです。
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