その若武者は武家の棟梁(とうりょう)の御曹司(おんぞうし)であり、都で何不自由なく暮らしていました。しかし、彼が13歳の時に父親が朝廷に反乱を起こすと賊軍として狙(ねら)われるようになり、やがて捕らえられた若武者は、争った武家の棟梁の前に引きずり出されました。
本来ならここで処刑されてもおかしくなかったのですが、彼に対して助命の嘆願があったことで奇跡的に生き延びると、伊豆(いず、現在の静岡県東南部)に流罪(るざい)となりました。
罪人となった彼は、それまでの都暮らしとは打って変わって馬の世話や水汲(く)みあるいは米づくりなど、日々の生活のほとんどを自分一人でこなさなければならなくなりました。
始めのうちは辛かった毎日でしたが、彼自身が成長して慣れていくうちに、都に居続けていれば絶対に体験することのできなかった「武士や庶民(しょみん)の本当の気持ち」を、特に土地制度の矛盾(むじゅん)に苦しんでいた武士たちの「自ら耕作した土地は自分の手で所有したい」という切実な願いがよく理解できるようになりました。
要するに、彼は「武士としての実地訓練」を長い時間をかけて着実に積んだのです。
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彼は最初のうちは事態を静観していましたが、やがて計画が全国的に明らかになると、激怒した相手方の武家の棟梁は「自己の政権に反対する勢力を皆殺しにする」と宣言しました。
自分の生命の危機を知った彼は、座して死を待つよりはと覚悟を決め、舅(しゅうと、自分の妻の父のこと)である北条時政(ほうじょうときまさ)とともに挙兵しました。
その彼こそが「源頼朝(みなもとのよりとも)」だったのです。
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翌治承4(1180)年、清盛が外孫(がいそん、他家へ嫁に行った娘が生んだ子のこと)にあたる安徳(あんとく)天皇をわずか3歳(満1歳2か月)で即位させるなど、平氏政権は有名な「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉に象徴される絶頂期にありました。
しかし、法皇を幽閉させるという強引な手法が周囲の批判を受けたほか、平氏が摂関家と同じ手法で政治を行ったことで「裏切られた」と感じた武士たちの怒りや、自分たちの真似をされたと憤慨(ふんがい)した貴族らの怒りを買うなど、平氏政権に対する不満が全国で次第に高くなっていきました。
後白河法皇の第二皇子にあたる以仁王(もちひとおう)もその一人でした。治承4(1180)年、以仁王は平氏を倒して自らが新たな天皇として即位するという夢をかけて、源氏の長老であった源頼政(みなもとのよりまさ)と挙兵し、全国に平氏打倒の令旨(りょうじ、皇太子による命令書のこと。ただし、以仁王は皇太子ではないので、厳密には意味が異なる)を発しました。
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令旨を受け取った当初の頼朝は、平氏の圧倒的な軍事力と流人(るにん)である自分に付き従う兵力がないことを考慮し、態度を保留していました。
ところが、味方と思っていた源頼政の裏切りに激怒した平清盛が全国に散らばる源氏の残党勢力に対して追討命令を出したため、頼朝の身にも危険が迫りました。追いつめられた頼朝は、まさに「窮鼠(きゅうそ、追いつめられたネズミ)猫を噛む」思いで打倒平氏に立ち上がったのです。
なお、以仁王の挙兵を契機に各地で起きた平氏政権に対する反乱は、最終的には平氏が滅亡する元暦(げんりゃく)2(1185)年まで足かけ6年間にわたる大規模なものとなりました。今日では、これらの内乱を総称して「治承・寿永(じゅえい)の乱」といいます。
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この絶体絶命のピンチに頼朝を助けたとされるのが梶原景時(かじわらかげとき)であり、景時は以後も頼朝の片腕となって活躍することになります。
一方、頼朝の挙兵に対して激怒した平清盛でしたが、石橋山の戦いの結果を聞くと安心したのか、それ以上頼朝を追討するのをためらってしまいました。
その間に安房(あわ、現在の千葉県南部)に逃れた頼朝が再度挙兵して進軍するうちに東国の武士が続々と集結して、あっという間に数万の大軍にふくれ上がってしまいました。いわば平氏の一瞬の油断が頼朝の再起を可能にしてしまったのです。
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この戦いの後、頼朝は直ちに平氏を追いかけて都を目指さずに、鎌倉(かまくら)に入って足固めをしました。石橋山の戦いの敗北の経験から自分が戦争に向かないことを悟(さと)ったうえで、関東で自分の実力を蓄(たくわ)えようと考えたのです。なお、同年旧暦11月には鎌倉に軍事や警察組織をつかさどる「侍所(さむらいどころ)」を設置しています。
「自分になぜこれだけ多数の武士が付き従ってきたのか」。先述のとおり、武家の棟梁の御曹司から流人に転落し、現地で「武士としての実地訓練」を長年にわたって積んできた頼朝には分かっていました。
頼朝は、当時の多くの武士たちの願いであった「自ら開墾した土地を自身の手で堂々と所有する」ことを実現するのが自分の使命だと考え、そのためにも鎌倉を本拠地として自らの体制を確立しようと考えたのです。
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