本能寺の変によって一番得をしたのは、実は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。信長はそれまで講和を結んでいた長宗我部元親を征伐する決意を固め、三男の織田信孝(おだのぶたか)や家臣の丹羽長秀(にわながひで)らに攻めさせる準備をしていました。しかし、その直前に本能寺の変が起こったため、元親は滅亡を免れたのです。
この四国征伐こそが、光秀に謀反を決意させる「爆弾」でした。なぜなら、信長と元親との間で和平の交渉を続けていたのが光秀だったからです。元親は早くから信長と同盟を結び、光秀の家臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)の義理の妹を嫁にもらって、生まれた長男を信長にあやかって「信親」(のぶちか)と名付けました。
こうした長年の苦労で磐石(ばんじゃく)になったはずの同盟関係を反古(ほご)にされたばかりでなく、義理とはいえ家臣の妹と甥(おい)を討たれる立場になった光秀は激しく動揺しました。
「信長様の考えにはついていけない」。従来の秩序こそが正しいと考え、信長の行動が理解できなかった光秀の中に芽生えていた不信感が爆弾と化していく中で、信長の長宗我部氏に対する仕打ちによってついに導火線に火がつき、音を立てて爆発してしまったのです。
信長の命令で秀吉の毛利家征伐の先導を任された光秀は、1582年6月1日の深夜、軍勢を率いて信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲しました。信長は、わずかな家臣とともに奮戦しましたが多勢に無勢ではどうしようもなく、最期には自害して果てました。享年49歳、まさに「人間五十年」の生涯でした。




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オバrev えっ、長宗我部元親?
だ、誰ですか??
てっきり秀吉か朝廷がしくんだと思ってましたが、思いも寄らぬ名前でした(^^;)
しかし信長が好んで舞ったと言われる敦盛の謡、「人間50年、下天のうちを比ぶれば夢、幻の如くなり」
はまさに信長のための謡ですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > えっ、長宗我部元親?
> だ、誰ですか??
> てっきり秀吉か朝廷がしくんだと思ってましたが、思いも寄らぬ名前でした(^^;)
それでは元親を含む長宗我部氏について簡単にご紹介します。
長宗我部氏はもともと土佐の地方豪族だったのですが、元親の代になって土佐一国を統一すると、阿波や讃岐にも攻勢をかけました。
元親は外交能力にも長けており、早い段階から信長と同盟を結んでいました。しかし、諸般の事情でいつしか元親と信長は敵対関係となりましたが、信長に攻撃される直前に本能寺の変が起きて、滅亡は免れました。
その後、元親は伊予も制圧して念願の四国統一を果たしますが、その直後に秀吉に攻められ、土佐一国に押し込められてしまいました。元親が1599年に死去すると、後を継いだ盛親が関ヶ原の戦いで西軍についたことにより、長宗我部氏は家康によって領地を没収されました。盛親は大坂の陣で豊臣方について再起をかけましたが敗れ、戦い後に斬首となり、長宗我部氏は滅亡しております。
> しかし信長が好んで舞ったと言われる敦盛の謡、「人間50年、下天のうちを比ぶれば夢、幻の如くなり」
> はまさに信長のための謡ですね。
偶然とはいえそのとおりですね。これが信長の運命だったのでしょうか…。
marihime 黒田さんこんばんは☆
面白く読ませていただきましたが、少しだけ歴史的事実と異なるところがあり、指摘したいと思います。
光秀は本能寺の変の三ヶ月も前に上杉景勝に書状を送り、「信長を誅する」と書き送っています。
書状も現存しています。
光秀の本心は、足利将軍家を筆頭とする秩序の維持であり、信長の革命的な行動が許せなかったものと理解するほうが的を射ているようだと思います。
あくまでこれは私の考えではなく、歴史的事実から考察できるものだと思います。
marihimeさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
光秀には信長の革命的な行動が理解できなかった、ということですね。光秀に限らず、将軍家を第一に考える当時の秩序からすれば、光秀の考え方のほうがむしろ自然でしょう。
そうなると、自己を引き立ててくれた恩人ではあるものの、革命的な考え方に「ついていけない」と思い、爆弾が出来たところで、長宗我部の一件によって導火線に火がつき、一気に爆発したと考察したほうが良いのかもしれませんね。
ご指摘を受けまして、記事の内容を変更いたしました。収録と異なるところには断りを入れておきます。
当方の見解に誤りがございましたら、これからもご遠慮なくご指摘下さい。今後ともよろしくお願いします。
長宗我部元親の存在?
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
最近、戦国マニアの間で、長宗我部元親が人気が
出ているそうですが、正直、私は、名前程度と
四国を統一したくらいの存在でしか、私は
理解していませんでした。
ただ、不思議なのは、
天下統一に近い、織田信長が、長宗我部元親と
同盟を結んだり、その同盟の交渉役に明智光秀を
任命したりすることが不思議でなりません。
つまり、それほど、織田信長にとって、
長宗我部元親の存在が大きかったことが??です。
四国は、本州から、離れていて、しかも、経済的にも、それほど、重要な場所ではないと思うのに
なぜ、長宗我部元親の存在を当初、重視していたのでしょうか。
これについて、私なりに2つの仮説を考えてみました。
① 仮説(1)
これは、私の仮説ですが、四国の瀬戸内海側は、海上交通の要衝で、毛利を攻めるには、四国を抑えておくほうが、
今後の戦いに有利に働くと当初は、信長も考えていたのに、毛利攻めが、秀吉の活躍で、可能だと判断し
同盟を決裂しようとした。
②仮説(2)
長宗我部元親は、当初、同盟を結ぶほど、優秀な武将だった。しかし、信長が考えていた以上に
あまりにも、優秀な同盟者の存在に恐怖を感じ
同盟を破棄し、毛利攻めが終わってないのに
四国征伐をしようと考えた。
その理由は、浅井長政のトラウマから、生じる同盟者への不信感がそうさせた。
これは、同じく、
織田信長の優秀な同盟者である徳川家康が、大名として、大きくなった時に
(妻、息子)の殺害を命じて、家康を試したことからも、そう思いましたが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 私の考えは仮説1に近いですね。
信長が四国攻めを決断したのは、毛利家の関連以外としては息子の信孝に確固たる領地を与えたかったからでないかと考えております。
いずれにせよ、四国攻めは光秀の今までの苦労を水の泡にするものでしたから、本文のような行為に出たのではないでしょうか。
こうして信長を討ち取って、天下取りにその名を挙げた光秀でしたが、その後の展望については現代でも不明のままです。わずか10日あまりで死んでしまったゆえの事情もありますが、それ以上に、光秀にとっては「身内」ともいえる武将の裏切りが大きく響きました。
光秀には先述の細川藤孝という親友がいました。藤孝の息子である細川忠興(ほそかわただおき)は、光秀の娘である珠(たま)を嫁に迎えており、光秀は藤孝が当然自分の味方をしてくれるものと信じていました。
しかし、光秀の期待に反して藤孝・忠興父子は光秀の誘いを断り、藤孝は髪を切って出家し、忠興は珠を領国内に閉じ込めてしまったのでした。驚いた光秀は自筆の書状で説得しましたが、受けいれられませんでした。
また、光秀と縁の深かった武将である筒井順慶(つついじゅんけい)も、光秀の誘いに対して色よい返答をせず、光秀は京都の洞ヶ峠 (ほらがとうげ)まで出陣して参戦をうながしましたが、結局順慶は動きませんでした。ちなみに日和見(ひよりみ)するという意味の「洞ヶ峠」の故事(こじ)はこれが由来です。
細川藤孝・忠興父子にせよ、筒井順慶にせよ、彼らが動かなかったのには大きな理由がありました。それは、本能寺の変が「光秀自身によって単独で行われた」からです。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。




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紗那 元親さんですか!
それを忘れていた・・・orz
でも今日の記事の流れはちゃんと知ってました。
よかったです。日和見の由来がここっていうところまで知ってた、僕っててんさry
でも、味方しなかったりゆうまでは知りませんねー。
「単独」だと何か問題があるんでしょうか。
次回に期待します。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 元親さんですか!
> それを忘れていた・・・orz
意外と盲点みたいですね。後に秀吉によって領地を削られていますから余計に目立たないんですが、この時に滅亡の危機だったのは事実です。
> でも今日の記事の流れはちゃんと知ってました。
> よかったです。日和見の由来がここっていうところまで知ってた、僕っててんさry
努力家の紗那さんは「秀才」だと思いますよ(^_^)v
日和見のエピソードですが、筒井順慶が気の毒に思えてきますよね。
> でも、味方しなかったりゆうまでは知りませんねー。
> 「単独」だと何か問題があるんでしょうか。
> 次回に期待します。
単独=孤独、つまり仲間がいないということですからね。「強力な後ろ盾」がいないと、裏切りには二の足を踏むものなんですよ。