昭和6(1931)年12月に成立した犬養毅(いぬかいつよし)内閣の大蔵大臣となった元首相の高橋是清(たかはしこれきよ)は、不況の一因となった金輸出を直ちに再禁止(=金輸出再禁止)し、さらに銀行券の金への兌換(だかん、銀行券を正貨=一国の貨幣制度の基準となる貨幣と引き換えること)を停止しました。これによって我が国は金本位制から離れ、管理通貨制度へと移行することになりました。
さて、我が国が金本位制から脱したということは、それまでの財政の足かせとなっていた「国内における金の保有量に左右される」こともなく、フリーハンドな財政政策が可能となることを意味していました。また、我が国が金輸出再禁止に踏み切ったことで、国際的な円の相場が下落する傾向にありました。
高橋蔵相はこれらの流れを生かし、我が国の為替相場を計画的に低くしたほか、円安を利用して輸出を増加させました。また赤字公債を発行して軍事費・農村救済費などの公共事業や公共投資を積極的に行い、我が国の内需を拡大させる政策をとりました。
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ブロック経済を形成していたイギリスなどの列強は、こうした我が国の政策をソーシャル=ダンピング(=国ぐるみの投げ売りのこと)と非難し、関税を大幅に引き上げる対抗措置(そち)を行いました。
また、綿布の製造などに必要となったこともあってアメリカからの綿花や石油などの輸入が増大し、我が国のアメリカに対する依存度が高くなっていきました。
円安による輸出の急増は結果として様々な産業の活性化をもたらし、昭和8(1933)年には経済成長率が2ケタを記録するなど、我が国が世界恐慌以前の生活水準に回復するとともに、日本経済が昭和恐慌からの脱出に成功しましたが、これは世界の資本主義国家の中でもっとも早かったのです。
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また、昭和10(1935)年には重化学工業の生産額が軽工業の生産額を上回り、昭和13(1938)年には金属・機械・化学工業の合計生産額が工業生産額の過半数を占めるようになるなど、産業構造の全体が軽工業中心から重工業中心へとシフトし始めました。
鉄鋼業では、八幡製鉄所を中心とする大合同によって昭和9(1934)年に日本製鉄会社が創立され、鉄鋼生産を独占するとともに鋼材の自給が達成されました。また自動車・航空機・化学などの部門で日本産業(=日産)や日本窒素(ちっそ)(=日窒、にっちつ)などの新興財閥(ざいばつ)が台頭し、満州や朝鮮へも進出しました。
一方、既存の財閥も満州事変後から次第に重化学工業の部門に進出したことで、産業界は活気づいて不況から立ち直っていきました。
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さて、犬養内閣の大蔵大臣となった高橋是清ですが、昭和7(1932)年の五・一五事件で首相の犬養が射殺され、高橋の親友でもあった斎藤実(さいとうまこと)が内閣を組織した後も、引き続き大蔵大臣を務めました。
その後、昭和9(1934)年7月の月の岡田啓介(おかだけいすけ)内閣の誕生によって一旦は蔵相を退きますが、後任者の病気もあって、高橋がかつて総裁を務めていた立憲政友会が岡田内閣に対して野党宣言をしていたにも関わらず、同年11月にまたしても大蔵大臣に復帰しました。
高橋が再び蔵相となった頃には、本人が推進していた積極財政も所期(しょき、期待している事柄のこと)の目的をほぼ達成しており、このまま続けては逆に高率のインフレーションになる恐れが出てきていました。
このため、高橋は予算の引き締めに政策を切り替え、軍事費を中心に国の財政を一律カットしようとしたことが軍部の恨みを買い、あの「大事件」を引き起こす流れにつながってしまうのです。
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