また、大正14(1925)年に成立した普通選挙法によって選挙費用が増大し、政党が財閥(ざいばつ)などからの献金に頼らざるを得ないという事情があったにせよ、「三井と立憲政友会」「三菱と立憲民政党」といった財閥と政党との結びつきが政界と財界との癒着(ゆちゃく、好ましくない状態で強く結びつくこと)につながっているという国民の批判が高まっていました。
こうした中で昭和5(1930)年に浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣が金解禁を断行しましたが、経済活動に詳しい財閥は、金解禁の際にあえて円高に設定した政策が遠からず失敗する可能性が高いとみていました。
もし金輸出再禁止となれば円高に設定されていた円の価値が暴落するため、財閥系の銀行は大量の「円売りドル買い」を実行して、自己の財産を失わないようにしたのです。
財閥の読みは当たり、昭和6(1931)年に犬養毅(いぬかいつよし)内閣が金輸出再禁止を行ったことで、結果として「財閥が為替相場を利用して巨額の富を得た」ことになりましたが、当時の我が国が不況の真っ最中であったことから、日々の生活に苦しんでいた国民の財界への不信を強めました。
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金融恐慌や昭和恐慌といった不況や、ロンドン海軍軍縮条約が引き金となった統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題、さらには協調外交という名の弱腰ぶりがもたらした満州事変などをきっかけとして、不況により生活苦にあえいだ国民は政党政治や財界への不信感を強め、こうした流れがやがて軍人や国家社会主義者らによる国家改造運動へとつながっていきました。
彼らは我が国が行きづまった原因が財閥や政党政治の腐敗(ふはい)ぶりにあると断じ、これらを打倒して軍部を中心とする強力な内閣を誕生させて内外政策の大転換を図ろうと考えましたが、それは同時に、国家社会主義の実現のために自由主義経済を攻撃する生贄(いけにえ)として財界首脳や政治家などを選び、彼らに「血の粛清」をすることを意味していました。
昭和6(1931)年に入ると、陸軍の幕僚将校(ばくりょうしょうこう、司令部に直属し参謀事務に関与する将校のこと)である橋本欣五郎(はしもときんごろう)を指導者としたほか、陸軍の中堅将校を構成員とした政治結社の桜会が中心となり、民間の思想家である大川周明(おおかわしゅうめい)らも参加して軍部内閣樹立のクーデターを2度も計画しましたが、いずれも事前に発覚して失敗に終わりました。
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なお、血盟団は日蓮宗の僧侶(そうりょ)である井上日召(いのうえにっしょう)を指導者とし、政党や財閥の関係者を「一人一殺(いちにんいっさつ)主義」で暗殺しようとしました。
血盟団事件は大きな反響を呼び、昭和9(1934)年には実行犯と井上日召が無期懲役に処せられましたが、全国から彼らに対する減刑の嘆願書が寄せられ、中には血書で記されたものがあったり、それとは別に女性の黒髪が弁護人に送られたりしたこともあったなど、当時の国民は血盟団によるテロ行為を「世直し」とみなし、事件が世間の同情を集めるようになっていました。
こうした「目的達成のためには暗殺などの非常手段も辞さない」という精神はその後も続き、昭和7(1932)年5月15日に、それまでの政治や外交に強い不満を持っていた海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸を襲い、犬養毅首相を射殺しました。この事件は今日では「五・一五事件」と呼ばれています。
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斎藤内閣は立憲政友会や立憲民政党からも閣僚を迎え、いわゆる挙国一致内閣をめざしたことで世論の支持を集めました。また、その後を継いだ岡田啓介(おかだけいすけ)も同じく穏健派の海軍大将の出身でした。
三月事件・十月事件から血盟団事件、さらには五・一五事件と続いた一連のテロリズムは為政者や財界を震え上がらせましたが、海軍の穏健派の重鎮を次々と首相に選んだことによって、表向きは動揺が収まったように見えました。しかし、その裏では国家社会主義思想が軍部を中心に確実に浸透(しんとう)し、やがては我が国全体を巻き込んだ前代未聞の大事件が起きてしまうのです。
なお、五・一五事件が起きる頃までには農村の疲弊(ひへい)が広く認識されたことで、財閥が次々と「転向」し、救済事業が開始されています。
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