満州全土における独立の機運は、やがて昭和7(1932)年3月に日・朝・満・蒙(もう)・漢の諸民族の協和、すなわち五族協和を理想に掲(かか)げて「満州国」の建国が宣言され、清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が執政として迎えられました。
なお、溥儀はこの2年後に満州国の皇帝に即位します。当時の犬養毅(いぬかいつよし)内閣は満州国の承認に消極的でしたが、五・一五事件で犬養内閣が崩壊(ほうかい)すると(詳しくは後述します)、次に成立した斎藤実(さいとうまこと)内閣が同年9月に両国間で「日満議定書」を締結して満州国を承認しました。
ちなみに、日満議定書の主な内容は満州における日本の権益の承認や満州国防衛のための日本軍の駐屯(ちゅうとん、軍隊が一定の地にとどまっていること)だけであり、これは満州事変以前と基本的に変わっていません。ちなみに誕生したばかりの満州国には、国家の運営を手助けするために多数の日本人が要職に就(つ)きました。
なお、満州国建国後の昭和8(1933)年5月に「塘沽(タンク―)停戦協定(または日中軍事停戦協定)」が結ばれて、満州事変が終息しました。この後、日中間においては昭和12(1937)年の盧溝橋(ろこうきょう)事件まで停戦状態が続きますので、この事実だけでもいわゆる「十五年戦争」のウソがはっきりします。
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もし満州国が我が国の傀儡国家として植民地のような厳しい対応をしていれば、少なくとも執政(後に皇帝)となった溥儀を強引にその座に就かせたはずなのですが、実際には溥儀は自ら望んで執政や皇帝の地位に就きました。
なぜなら、清朝はもともと満州から中国大陸に進出した国家であり、満州国の建国は「元来の発祥(はっしょう)の地に清朝が復活した」ことを意味していたからです。だからこそ、溥儀は父祖の故郷である満州への帰還を自ら希望したのであり、言うならば満州族の正当な皇帝が故郷に戻っただけなのです。
さらに付け加えれば、万里の長城の北に位置する満州はそれまで歴史的にチャイナの領土になったことは一度もありません。確かに清朝は満州を自己の領土としましたが、同時にそれはチャイナが満州に併合されたことを意味していました。
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何しろ他の列強は、1915(大正4)年にアメリカがハイチを侵攻した際に約20年間も占領し続けたように、明らかな侵略の意図を持っていたのが当然だったからです。
ただ、事情はどうあれ、満州国が日本の影響を強く受けているという事実は動かしがたいものがあるかもしれませんが、これも国際的な慣例からすればそう珍しいことではないのです。例えばモナコ公国は長い間フランスの保護国として外交権を委(ゆだ)ねていましたが、だからといってモナコがフランスの傀儡(かいらい)政権だという見方が成立するでしょうか。
それに、満州国は我が国のみが承認したわけではありません。満州の権益を狙っていたアメリカは満州事変を「九か国条約違反」として我が国を非難しましたが、イギリスは「満州国の独立宣言は九か国条約によって禁じられない」という見解を示し、満州国を事実上容認しました。
なぜなら、満州事変や満州国の建国が日本人居留民の保護を目的としていたことを、同じように中国大陸に利権を持っていたイギリスが理解していたからです。また、イギリスにとっては自国の利権を侵害さえしなければ、満州国の存在が対ソ連の防波堤としてかえって好都合であることを見抜いていたと思われます。
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リットン報告書では我が国の満州の権益は認められたものの、日本軍による軍事行動は正当な自衛手段とは認められず、満州国に代わる自治的な政府を建設すべきという提案が出されました。
しかし、我が国にとってリットン調査団の主張は到底承認できるものではありませんでした。なぜなら、満州における我が国の軍事行為には日本人居留民の保護という正当な理由がありましたし、また、そのために現地の満州族による国家をつくったということは、欧米列強による植民地化に伴う簒奪(さんだつ)行為とは雲泥(うんでい)の差がありました。
加えて、満州への進出はアメリカやイギリスなどがブロック経済と化していく中で、資源を持たない我が国が生き残るための正当な手段であるとともに、広大な満州の権益以外に我が国が頼れるものがないに等しいという深刻な事情もあったのです。
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そんな我が国の思いが、国際的に重大な決断をすることにつながったのです。
昭和8(1933)年2月、国際連盟総会において「日本軍を南満州鉄道付属地内に撤兵させ、チャイナの主権下による行政機関を満州に設立する」という、我が国が満州国の承認を撤回する内容の勧告案が42対1で採択されました。
採択後に松岡洋右(まつおかようすけ)ら日本代表団が勧告案を可決した総会の場から退席すると、翌3月に日本は国際連盟からの脱退を通告し、昭和10(1935)年に認められました。
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ワシントン海軍軍縮条約並びにロンドン海軍軍縮条約はいずれも昭和11(1936)年12月に失効し、以後は無制限の建艦競争が各国で繰り広げられるようになるのです。
ところで、満州の日本人居留民保護を目的として始まった満州事変やその後の満州国の建国は、欧米列強による侵略行為あるいは植民地化による収奪とは全く性格が異なるものでしたが、それらが出先機関である関東軍の独断で行われ、結果として政府や陸軍参謀の意向を無視するものであったという事実には大きな問題がありました。
関東軍による独断の背景には、いわゆる「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」がありました。なぜなら「軍部は内閣の指示を受ける必要がない」という思いが軍部内における下剋上(げこくじょう)の空気を生み出し、やがては「大義のためなら上官の言うことを聞かなくてもよい」という雰囲気が軍部全体を支配するようになったからです。
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そんな政府や軍首脳の対応を見た一部の青年将校の中から「大義のためなら何をしても許される」という考えが生まれていくのは、むしろ自然な流れでもありました。この後、我が国は軍部を中心とした様々な事件が発生するとともに、彼らの行動を誰も止められなくなってしまうのです。
関東軍による独断は、結果として別の問題も生み出しました。それは「日本の世界に対する信頼の失墜(しっつい)」です。本来であれば関東軍が独走する以前に、日本政府が国民政府や張学良軍に対して満州における日本人居留民への対策をしっかりと行い、その上で関東軍に適切な指令を出していれば、満州事変は起こらなかった可能性もあります。しかし、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相による協調外交では、それらは望むべくもないことでした。
満州国の建国にしても、もし政府が主体となって事前に欧米列強を中心に根回しを行い、諸外国の承認のもとに満州国の独立を援助していれば、話は全く異なっていたことでしょう。
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その後の満州国ですが、昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えるまでの十数年間で飛躍的な発展を遂(と)げました。しかし、我が国の敗戦とともに満州国の歴史は闇に葬(ほうむ)られ、現在においてすでに満州語は絶滅し、満州族は地球上から滅亡の危機にさらされているという厳しい現実があります。
政争に明け暮れて国益を見失った政党政治や、国民の生活の現状よりも世界に向けたアピールを優先した金解禁がもたらした昭和恐慌(きょうこう)、世界中でブロック経済が進む中で取り残されそうになる資源のない国・日本、協調の名のもとに相手になめられ続けるだけだった幣原外相による弱腰外交、さらには統帥権干犯を盾にした軍部の独走…。
これらの複雑な背景が重なり合うことによって満州事変から満州国建国の流れが生まれ、やがて我が国は国際社会の信頼を失うとともに未曽有(みぞう)の混乱を迎えることになってしまうのですが、それらは少なくとも「侵略戦争」という言葉だけで片付けられるような単純な問題ではないことは明らかなのです。
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