このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴにおいてアメリカ・イギリス・日本の3か国間で討議されましたが、アメリカとイギリスとの意見の衝突によって物別れに終わりました。これを「ジュネーヴ軍縮会議」といいます。
その後、昭和3(1928)年にはアメリカやフランスの提案によって各国の代表がパリに集まり、国際紛争の解決や国家の手段としての戦争を放棄することを規定した「パリ不戦条約」が結ばれました。
もっとも、不戦条約によって一切の戦争を放棄したわけではなく、我が国を含む各国が「自衛のための戦争は認められる」という見解を持っていました。ただし、自衛戦争の範囲がどこまで認められるかについての明確な規定がなかったために、後に中国大陸などにおける我が国による政策や軍事的行動が「不戦条約違反」として各国から非難されるようになったのです。
なお、パリ不戦条約には違反した場合の制裁の規定はありませんでした。
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会議では各国の意見が対立して難航しましたが、主力艦の建造禁止を昭和6(1931)年末から昭和11(1936)年末までさらに5年延長することや、補助艦の総トン数をアメリカ10・イギリス10.29・日本6.97の比率にまとめることで合意しました。
しかし、かねてよりアメリカを仮想敵国として、政府から軍事予算を引き出させるとともに対米戦に備えて補助艦たる潜水艦の建造を増やしていた日本海軍の軍令部は、補助艦の建造が不可能となる軍縮条約の締結に猛反対しました。
これに対して、当時の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣による協調外交を展開しており、また金解禁の実施のために徹底した財政緊縮の必要があったことから「ロンドン海軍軍縮条約」の締結を決断しましたが、このことが日本国内に大きな波紋を呼ぶことになるのです。
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なるほど、確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、条文を素直に読めば「統帥権は天皇のみが有する」という規定となりますが、実際にはもちろん天皇ご自身が指揮を取られることはなく、陸軍や海軍の責任者が握っていました。
また、そもそも国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名の下に内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃材料の一つでしかありませんでした。
ところが、時の野党である立憲政友会が「与党の攻撃材料になるのであれば何でもよい」とばかりに、統帥権干犯問題を政争の具として軍部と一緒になって政府を攻撃したことで、話が一気に拡大してしまったのです。
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ところが、軍部が火をつけ、政友会が油を注いだ統帥権干犯問題はもはや止めることができず、ロンドン海軍軍縮条約そのものは何とか批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)に成功したものの、先述のとおり浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃(そげき)されて重傷を負い、翌昭和6(1931)年4月に内閣総辞職をした後、同年8月に死亡しました。
統帥権干犯問題は確かに大日本帝国憲法における欠陥ともいえましたが、憲法制定当初は全く問題視されていませんでした。それがなぜ、制定から40年以上も経ってから我が国に深刻な影響を与えるようになったのでしょうか。
その背景には、例えば伊藤博文(いとうひろぶみ)のような明治維新の元勲(げんくん、国家に尽くした大きな功績のある人のこと)たる「元老(げんろう)」の存在があったのです。
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そもそも、明治維新や明治新政府は元老たちが明治天皇の下で起こしたのですから、元老の意見は天皇の意見と同じだけの重みをもっていましたし、その元老たちの推薦(すいせん)によって内閣総理大臣が選ばれたことから、首相や内閣も天皇や元老と一体のものと考えられていたのです。
これだけの重みがある以上、たとえ大日本帝国憲法に規定のなかった内閣であってもその指導力はいかんなく発揮され、日清戦争や日露戦争の際にも、その絶妙な政治的判断によって我が国は国難を何度も乗り越えてきました。
しかし時が流れ、昭和を迎える頃には元老のほとんどが死に絶えてしまい、大正期に元老となった西園寺公望(さいおんじきんもち)のみとなってしまいました。こうなると、元老の意見が天皇の意見と同じであると誰も思わなくなり、同時に内閣の権威も低下してしまったことで、統帥権干犯問題が表面化してしまったのです。
そして、そんな統帥権干犯問題をさらに拡大してしまったのが、本来は軍部をコントロールする立場であるはずの政党であったことが、何とも言えない皮肉でもありました。
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なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府の言うことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められなくなってしまうようになりました。
さらには、政府のいうことを聞く必要がなくなった軍部自体も似たような悩みを抱えることになりました。なぜなら、軍のトップが憲法を盾(たて)に政府の言うことを聞く必要がないということが、自身の部下に対して「政府の言うことはもちろん、陸海軍の中央の意向も確認する必要がない」という風潮を同時に生み出してしまったからです。
やがて我が国では、青年将校を中心とした軍部による「血の粛清(しゅくせい)」が当たり前になったほか、陸軍首脳などが全くあずかり知らないところで現地の軍隊が勝手に軍事行動を起こすようになりますが、これらは元はといえば、国家全体の指揮系統を弱めた政治家や軍部の責任でもあるのです。
なお、統帥権干犯問題は最後には国家の統治機関の中枢(ちゅうすう)にまでその影響が及び、我が国は果てしない戦争への道を歩むことになります(詳しくはいずれ紹介します)。
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