精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、安政2(1855)年には蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させたほか、文久2(1862)年には蒸気船の原動力となる蒸気釜を製作しました。
久重によるこれらの努力は我が国における蒸気機関の発達に大いに役立ちましたが、そんな彼が手がけたひとつの「最新兵器」が我が国の歴史そのものを大きく変えることにつながったことを皆さんはご存知でしょうか。
その兵器の名を「アームストロング砲」といいます。
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施条を付けたことによって、飛び出す砲弾の飛距離を伸ばすとともに弾道をぶれなくさせ、さらに命中精度を高めるという優れた兵器となったのです。
アームストロング砲の優秀さを伝え聞いた肥前藩は直ちに大砲を輸入しましたが、それだけで満足せず、当時の西洋の最新技術を駆使してつくられたことから、東洋人にはとても真似ができないであろうと思われたアームストロング砲を、そのままそっくり同じものを作ってしまったのです。
文久3(1863)年に肥前藩で完成した国産のアームストロング砲の製作にかかわった人物こそが田中久重でしたが、このアームストロング砲は、江戸幕府が崩壊した後に官軍と旧幕府軍との間で明治元(1868)年に起こった戊辰戦争で大いに活躍することになりました。
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アームストロング砲はその後も大いに活用され、同年の会津(あいづ)戦争では会津藩の鶴ヶ城(つるがじょう)を落城させました。アームストロング砲によって激しく損傷した当時の鶴ヶ城の写真が今も残されています。
こうした功績が認められたことによって、明治維新以後のいわゆる藩閥(はんばつ)政府において肥前藩は薩摩(さつま)藩や長州藩、あるいは土佐(とさ)藩とともに「薩長土肥(さっちょうとひ)」と並び称されるようになりました。
また、肥前藩出身の人材が明治政府に登用されたことで大隈重信(おおくましげのぶ)が活躍しました。やがて彼は明治15(1882)年に東京専門学校を設立しますが、これが今の早稲田(わせだ)大学につながっています。
肥前藩や維新後の大隈重信らの活躍、あるいは早稲田大学が現代においても慶應義塾(けいおうぎじゅく)大学ともに「私学の雄」とされているのは、田中久重が製作したアームストロング砲の功績あってこそともいえるのです。
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