江戸幕府が滅びて明治維新を迎える頃にも、久重は我が国初となる製氷機や自転車・人力車・精米機・写真機、あるいは川の水を引き上げる昇水機など、日常生活に密着した様々な製品の発明や改良を行い続けました。
明治6(1873)年、75歳の久重は故郷を離れて新首都の江戸改め東京へと移住し、電信機の製造など西洋技術の国産化に大きく貢献しました。
さらに明治8(1875)年には、文明開化の象徴とされたレンガ造りの建物が並ぶ銀座(ぎんざ)へと移り、「万般(ばんぱん)の機械考案の依頼に応ず」という看板を掲げた店舗を構えました。
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最晩年まで様々な発明や改良を行い続けて、我が国の歴史に大きな足跡を残した田中久重でしたが、明治14(1881)年1月11日に83歳の天寿を全うしてこの世を去りました。
久重の死後に養子が二代目田中久重を名乗り、翌明治15(1882)年に銀座から東京の芝浦(しばうら)に移転して「田中製造所」を設立しました。田中製造所は明治37(1904)年に会社所在地の「芝浦製作所」に改名し、昭和14(1939)年には「東京電気」と合併して「東京芝浦電気株式会社」となりました。
東京芝浦電気は、昭和59(1984)年に「株式会社東芝」と商号変更して現在に至っています。田中久重が生涯かけて築き上げた発明や改良における情熱あるいは探究心は、我が国が世界に誇る複合電機メーカーである東芝に受け継がれているのです。
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生まれつき手先が器用で幼い頃から次々とからくり人形を作っていた少年が、やがて「からくり儀右衛門」と評判を呼ぶようになり、成人した後も精力的に活動を続けて、ついには我が国の歴史を大きく変える発明家となったのみならず、彼が晩年に起こした事業は現在も続く我が国屈指の複合電機メーカーにまで成長しました。
「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重が我が国にもたらした功績は計り知れないものがありますが、それらは寝る間も惜しんで研究を続けた凄まじいまでの努力と、留まることを知らない探究心によるものであったといえるでしょう。
久重が晩年に残したと伝えられる以下の名言を耳にしたとき、私たちは彼の偉大さを知るとともに、彼に負けないくらいの努力を重ねて世の中に貢献したいと強く実感するのではないでしょうか。
「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには志(こころざし)があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に成就があるのである」。
現在、東芝は色々と問題を抱えているようですが、創業者の「からくり儀右衛門」の精神を思い出して苦境を乗り越えてほしいですし、長い間GDPがずっと横ばいを続けている我が国も、田中久重のような民間の素晴らしい人材を活用しながら、かつての「黄金の80年代」の勢いを取り戻すことができるように願っております。
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